2017年4月23日日曜日

あなたの知らない安竿の世界

 薄々感づいておられる方もいるかと思うところだが、ナマジは安竿が好きだ。って何回も書いてるからご存じか。

 なぜ好きなのか?「好きだから」と書いてしまうと終わってしまうのでつらつらあげていくとすると、まずは比較して高い竿が嫌いだというのがあるのだろう。

 高い竿のドロドロとした欲望まみれの金儲けの腐臭が漂ってくるところが嫌いだし、薄くて軽くて折れやすいのが嫌いだし、感度だとか飛距離だとか魚をかけたことがない人間でも評価できる要素ばかりに力を入れているのも嫌いだし、ピカピカの高級ロッドが放つ俗臭さが嫌いだし、なにより高くて買いにくいのが嫌いだ。

 その点安竿は良い。まあ安くてだめな竿もたくさんあるけど、素人が乱暴に扱っても大丈夫なように丈夫に作ってあるところが好きだ、田舎臭く分厚い巻きの重量感が好きだ、ダルくて感度が悪くて人も魚もかかったことに気づかなくて早あわせしなくてすむのが好きだ、デカい魚がかかったときに折れてもいいやとギリギリ曲げられる気安さが好きだ、その時に意外に折れずに魚が上がってくる頼もしさが好きだ、自慢臭くならないさりげなさが好きだ、なにより財布に優しいところが好きだ。

 たぶん古今東西の安竿のうちベストオブ安竿を選ぶなら、シェイクスピアのアグリースティックでまず間違いのないところだろう。特にアメ人とかオージーとかの労働者階級の釣り人なら分かってくれるはず。特権階級はセージでも使ってろ!俺たち労働者階級はアグリースティックの透明なグラスソリッドティップを愛するッ!
 主にカヤックのシーバス用で愛用。突然の青物にも余裕で対応の頼もしい竿たちだ。

 ゆうても、普段シーバス釣りに使っている竿は、それほど安物ばかりではない。
 今年一発目に大物スズキを釣る幸運に恵まれたときに、ケン一から「どうせまた安モンのパックロッドとか使ってたんやろ?」とおちょくられたが、ジャクソンの「ブリストールBP805L」を安竿というのは失礼だろう。まあ、手間のかかる5本継ぎで発売当時の定価で2万円くらいだから良心的な価格だとは思うが。

 ケン一のいう安モンのパックロッドとは、仕事帰りの釣りとかで活躍してくれる「NEW WAVE minipack210」のことだと思うが、これは正真正銘の安竿で中古屋で300円で買ったのである。
 しかし、そんな安竿でいいのなら竿なんて何でもいいんだろうと勘違いされては困るのである。ぜんぜん狙って設計していないんだろうけど、たまたま私のシーバス釣りに丁度いい調子に仕上がってしまった奇跡の安竿なのである。
 それまで、鞄に放り込んで仕事帰りや出張のお供としていた竿は、リョービの「ジョイスピン606ML」というパックロッドで、これまた中古で2千円ぐらいの安竿だったけど、竿先は堅いカーボンソリッドでアタリをはじき、突っ込まれると耐えきれずに身切れでバラし、リングのリールシートは滑ってリールがよく落ちるという、なんとかならんのか?という竿だった。しかし、安いルアー用のパックロッドって当時それぐらいしかなくて、出張先で先輩も同じ竿使ってたというような竿であった。
 もっといいパックロッドがあったら買い換えたいと思って、中古屋とかで餌釣り用も含めてパックロッドがあったら伸ばして調子を見てみたりしていたけど、なかなか良いのには出会えなかった。耐久性とか心配な針金ガイドの竿とかは安くても実用性が無いし、ちょっと良い竿だとやっぱりティップが堅かったり全体的なバランスがいまいちだったりする。
 そんな中で、地味な見た目でワゴンで安売りしてそうな「NEW WAVE」は、まず安竿のくせにガイドがハードガイドが付いている。伸ばして調子をみてみると「これはいける!」と確信が走った。ソリッドグラスのティップが柔らかく全体としての調子もダルめのシーバスのアタリをはじかないような調子。しかも値段は300円。ためらうことなくレジへ。実釣での性能も文句なしで超お気に入りの1本となった。石積み護岸でこけて穂先を折った後も、穂先交換して使い続けている。
 中古釣り具屋にいくと、もう一本ないかとパックロッドのコーナーを今でも探してしまう。
 安竿すべてが良い竿ということではなく、安竿にも良い竿があるということだと思う。

 運河でよく使っているフェンウィックも「ランカーギアX」は売ってた当時で実売2万円ぐらいの中級モデルといって良い竿だけど、姉妹竿の「イーグル」は実売1万円ぐらいの立派な安竿である。
 こういう、大手メーカーがいろんなグレード出している中の安い方のシリーズの竿って「当り竿」があってお買い得。単に安出来でダメなのもあるけど、例えば先のフェンウィックなら、ランカーギアXもイーグルもブランクス一緒なのである。ガイドがSICかハードガイドかなんて普通実用上差がでるほどの違いじゃない。上位機種譲りの性能でお値段控えめはお得感大。
 ダイワも初心者用から競技用の高級機種まで、いろんな竿をだしているけど、グラスのオレンジ色の「アタッカー」の時代からダイワの安竿にはお世話になっている。
 「パシフィックファントム」の振り出しシーバスロッドも丈夫で良い竿だったし、カレイの船釣りで使っていた「早船」も良かったので、もう一セット新しく買ったときにもまた「早船」買ったった。インドネシア製で換え穂も付いて1万円台とお手頃な安竿だった。実用性問題なし。
 というわけで、へら釣り始めるにあたって、まず1本にダイワの「陽舟10尺」を選んだ。中古屋でシマノ「抜作」というイカした名前のと迷ったが、抜作先生の方は中古で1万円ぐらいと、ちょっと高級ロッドぽい感じだったので安竿感満載の「陽舟」に決めた。3千円ぐらいでお財布にも優しいし、初心者にはこのぐらいのがお似合いというものだろう。ダイワのウェブサイトで確認すると全17シリーズにもわたるダイワのヘラ竿のうち一番下のグレードの定価もなくオープン価格のシリーズである。竿の善し悪しが分かるぐらいに上手くなれば良い竿買えばいいようにも思うけど、たぶんそうなっても安竿を愛用しつづけそうな気はしている。

 ヘラ竿としては、もいっちょ13尺の天竜「峰」というのを、これも3千円くらいで買って、やや広い池の管理釣り場はこの2本で始めてみようということになったのだが、管理釣り場で惨敗。「箱」での修行にF師匠から「短竿の提灯ウドンセット釣りを練習するように」との指令があったので、関東の釣り堀では竿は8尺からの規定が多いらしいので8尺を買おうと思って、ハタと気が付いた。
 8尺って、2.4mだとすると我が家に結構あるんじゃねえの?
 ハゼ釣りやらテナガ釣りに使う小物竿には確かに「NEW白滝240」とかがあるが、小物竿でヘラ釣ると弱すぎてあげるのに時間がかかって案配悪そう。
 でも、「NEW白滝240」が塗装も剥げちょろげになって買い換えたときに、後継の「白滝Ⅳ240」を買ったは良いけど、小物竿にあるまじきごっついグラスの太竿だったのでお蔵入りして、結局「風雅」というカーボンの小物竿を買ったのを思い出した。
 お蔵入りしていた第4世代「白滝」の出番が来た。
 写真見て「小継渓流」となっているのに、なぜ小物用として買ったのか、ナマジはアホなのかと思われるかもしれないが、アホなのは否定しないけど、「NEW白滝」は渓流とか書いてあっても、実にいい案配に柔らかいグラスの小物竿だったので油断した。通販の怖いところである。
 「白滝Ⅳ」は前述のようにバットが太いグラスロッドなので竿受けに乗るかちょっと心配だったけど、ギリギリ乗りそうなので、ヘラ竿として活躍してもらうこととした。
 へら竿っていったって、長尺の竿なら軽い方がいいとかあるんだろうけど、短尺の竿ならそこそこの丈夫ささえあれば何だって良いんだろうと正直思っている。
 特に提灯釣りならあまり振り込みも必要なく竿の性能は掛けてからの楽しさを重視したっていいんじゃなかろうか?竹竿とかはそういう性格もあるんだと思う。
 グラス竿のグネグネとした釣り味は竹にも通じる面白さがあるとかないとか聞くけど、個人的にはとても好きである。
 実際、この竿でヘラを釣ってみて、実にいい案配に竿が魚をいなしてくれるし、グニャっと曲がりつつも太いバットはしっかり魚を寄せてくれて実にいい。8尺は白滝Ⅳで行く。「白滝Ⅳ」で食わせ餌「シラタキ」で釣るというくだらない釣りを真面目にやるつもりだ。

 そもそも、この「白滝」シリーズは、九州の釣り具販売チェーン店の自社ブランドっぽい「タカミヤ」のグラスののべ竿シリーズで。お店の入り口近くのワゴンのあるあたりにぶら下がっている安竿である。九州時代に小物釣りしようと思い立って「とりあえず800円で安いしこれでいいや」と買って、そのまま気に入って「NEW白滝」を使い続けていたのである。ちなみに今タカミヤのウェブサイトをみると「白滝V」となっていて笑えた。第5世代に突入したという、由緒正しい安竿である。
 「NEW白滝」の引退に伴う買い換えで、第4世代白滝はゴツすぎて一端お蔵入りになり「風雅」を買って実戦投入しているが、実はその後「NEW白滝」長さ違いで何本も中古屋で見つけて買ってしまった。「風雅」がくたばったらまた「NEW白滝」を使いたい。ついでに初代「白滝」も中古で見つけてしまいゲットした。
 「白滝シリーズ」第3世代が見つかれば現行第5世代は入手は可能なので全世代コンプリートである。まあ、誰もうらやましがらないコレクションだけど、第3世代の「白滝」を見つけた方はタレコミよろしくお願いします。たぶん名前は「白滝Ⅲ」と予想。

 とまあ、安竿への愛を書き綴ってみたところだけど、私が安竿を使うのは「愛故に」というのが一番の理由だけど、「道具なんて安モンでいいから興味があるなら釣りは始めたらいいよ」と声を大にして言いたいからというのもある。
 釣り具屋側は高い道具を買って欲しがるけど、そんなのとりあえずは無視していいよと、釣り具屋に騙されるのも釣り人の努めだろうな、とは薄々感じつつも、天の邪鬼の役目として安竿への愛を謳うのである。

2017年4月15日土曜日

今ここにあるディストピア

 東京湾奥のシーバス釣り場がいよいよ狭まってきた。

 職場から近いC川の川沿いのテラスは多くの場所で「投げ釣り禁止」だそうな、「桜護岸」のある運河も「ルアー釣り禁止」の立て看板が立ったとか。
 テロ対策やらでそれまで「黙認」されていたような企業の駐車場とかから釣り人が追い出される動きはずっと感じていたものだけど、ここに来て「釣り人」を締め出すというより、もっと具体的に「ルアーマン」が締め出される動きが出てきた。

 「投げ釣り」「ルアー釣り」が禁止された場所でも延べ竿でハゼ釣りはできるし、落とし込みのチヌ釣りとかもルール上は問題なさそう。
 要するに、「人が歩くテラスやら公園やらでハリのついたルアーを振り回すな危険。」ということだろう。
 危険じゃないか?と聞かれれば、それは多少は気をつけていても事故が起こる可能性はあるわけで危険じゃないとまではいえない。実際に橋の上にルアーを飛ばしてしまい通行人を釣ったんだか釣りかけたんだかという事故があったらしい。
 それでも、めったに起きない事故だと思うし、今までみんな楽しく釣ってたのに今更かよという気がしてならない。
 なんというか、事故があると面倒だからボール使用禁止、ペット禁止、飲食禁止、芝生立ち入り禁止とか禁止だらけで何もできなくなった公園に感じる不条理を感じざるを得ない。
 ガキども仕方なくゲームしたりしてて「子供は元気に外で遊べ」とか言われても禁止されてばかりでどこで遊べというのか気の毒になってくる。ゲームがダメとは思わんけど怪我する機会も与えられないってどうなのよ?
 と同じような不条理を東京湾のシーバスマンも味あわされつつある気がする。
 シーバスマンなんていう全体から見れば少数派の人間のちょっとした楽しみなんて安全様のためなら踏みにじってもかまわないと思われているならムカつく。
 抜け道的に「投げ釣り禁止」なら延べ竿でルアー使ったろかとか、「ルアー釣り禁止」ならフライ振ったろかとかも考えたけど、姑息なうえに正しくもなさそうな気がする。レジスタンス的にやってみる価値はあるのかも知れないが、正直気は進まない。

 加えてルアーマンがいじめられることになる根っこにある問題として日本の社会全体が「不寛容」になってきていることがあるのではないかと愚考している。「不寛容」というか有り体にいって小うるさくなってきた。
 たぶん昔の日本の村社会なら暗黙の了解だったようなことが、核家族化や都市への人の流れとかが進むにつれて機能しなくなって「ルールがなければ何をしても自由」という、権利と責任の考え方を間違ったような輩が増えるにつれ、いちいち小うるさくルールにしていかないと問題が生じるようになってきたというのもあるのではないだろうか。
 公園でよそもんが危ない遊びをしていたら、昔ならそこをシマにしているガキ大将が〆ておしまいだったのが、今時そんなことをやったら「何の権限があってそんなことを言っている」だの「そんなルールがどこにある」だのこうるせぇことをいうやつが出てくるだろう。
 権利とか自由には責任がついてまわるということを分かってないこういうバカには、昔なら「うるせえバカ、黙ってろ!」で済んだはずなのに、欧米的な個人の権利の考え方が悪い方にすっ転んだような「言ったモン勝ち」の今の日本ではそうはならないというのがクソみたいな現実か。
 例を出すなら、川で遊んでいて溺れた時に「川を管理する自治体に責任がある」とか言い始めるバカが典型か。川で遊ぶ自由は川での安全やら何やらの責任とセットであるはずで、それをバカが他人に責任を持っていこうとするから、責任をなすりつけられた管理者としては「川で遊ぶの禁止」にするという、クソしょうもない話になるのである。
 なぜ、この程度の問題が「黙ってろ!」の一言で済まずに訴訟まで行くのか、理解できない私が間違っているのだろうか?

 とはいえ、自分の子供が死んだとかで、その親とかならまあ分かる。行き場のない思いをどっかにぶつけずにいられないということもあるだろう。ただそういう親がいたとしても、全体としては「川で遊ぶときは気をつけて遊びましょうね」という方向に落ちるべきだと思うのだが、どうも今の社会は全体として「危険だから遊ばないようにしましょう」という方向に向いてしまっている気がする。
 先日の雪崩で亡くなった高校生の件でも、高校生の雪山登山は禁止の方向だそうだ。
 本来、危険を冒すのも含めて、イメージ悪くなった言葉ではあるけど「自己責任」のはずで、それに他人がとやかく口を出すのは大きなお節介だし、冒険的なリスクを取る行動を制限していく方向性は人間という世界の隅々まで冒険探検して発展してきた生き物の根幹に関わる過ちだと思う。
 もちろん、安全対策のため情報共有やらときには警告も必要だろう。だとしても「危険を冒してでもやる行動」にくだらない制限をかけるなといいたい。
 危険な水辺の看板には小説のタイトルじゃないけど「泳ぐのに安全でも適切でもありません」ぐらいであとは個人の判断と責任で良いじゃないかと思うのである。

 なんというか、個人が命を削ったりする行為に対して、お節介に過保護な世の中になってきているのではないかという気がしてならない。
 タバコは吸うなとかも、タバコ吸わない人間から見ても異様なぐらいにタバコを吸っている人間の楽しみにいらん世話を焼いている気がする。そんなもん吸いたくない人間が吸わなくてすむように分煙さえできれば個人の嗜好にとやかくいうなと思うのだが、今日日喫煙者は人格否定されかねない勢いで非難されている気がする。現代の魔女狩りといっていいのではないだろうか。
 ほかにも、太るなだのジャンクフード食うなだの「お前はオレのかーちゃんか?」というような小言を社会全体から浴びている気がする。
 なんというか、健康で長生きするのが一番という価値観にオレを巻き込まないで欲しい。
 そういうお節介な優しさに溢れた社会を痛烈に皮肉った「ハーモニー」というディストピア小説をちょっと前に読んだけど、酒やタバコはもってのほか、カフェインさえ健康のために取るべきではないと優しい人々にやり込められる科学者に痛く同情したものである。
 家畜のように管理されて健康で長生きしてなんになる?出荷でもされる気か?

 東京湾からシーバス釣り場が減るのは単純に悲しく腹立たしいが、それ以上に、我々の社会がどうも危険を冒すことを制限するディストピアに足をどっぷり突っ込んでしまっているような気持ちの悪さを感じるので、ひとくさり書いてみたところ。

 「あしたのジョー」を読んで育った昭和の男としては、健康で長生きするよりも一瞬でいいから真っ白な灰になるぐらいに燃え尽きて死にたい。
 新しいことに挑戦し続けて失敗し続け、勝ち目の少ない勝負を挑み続けて負け続け、ストレス満載な危機に身をさらし続け、暴飲暴食、疲労困憊で健康を害し早死にしたとしても、穏やかに健やかに面白いこともなく長生きするようなつまらん人生よりは満足して死ねるだろう。

2017年4月8日土曜日

悩める釣り人への銘

 大きな魚を釣り上げるために 強さを与えて欲しいと求めたのに
 筋トレを学ぶように 弱さを授かった

 偉大な釣り師となれるようにと 健康を求めたのに
 より釣りを望むようにと 病気を賜った

 幸せになろうとして 釣果を求めたのに
 賢明であるようにと 貧果を授かった

 世の釣り人の賞賛を得ようとして 腕前と成功を求めたのに
 得意にならないようにと 失敗を授かった

 人生を楽しむために 釣りを求めたのに
 釣りを楽しむためだけの人生を授かった

 求めたものは一つとして与えられなかったが、それがどうした
 我ら釣り人は最も豊かに祝福されているのだ


(元ネタ「悩める人々への銘」ある無名兵士の詩)

2017年4月1日土曜日

ヘラ釣りの秘技を会得した!!


 部屋の中に何かいるような気配を感じて朝目が覚める。
 枕元に、ふくよかな羽織袴の爺様が立ってこちらを見下ろしている。
 片手には釣り竿を、もう一方の手で大きなヘラブナを抱えている。
 物盗りの類いではなさそうではあるが、格好から想像される人物だとするとあまりにも現実離れしていてバカバカしい。
 しかし「あんた誰?」という問いに対するその爺様の答えは、その現実離れした想像を裏打ちするようなものであった。
 「ワシはヘラブナ釣り師のための恵比寿神じゃ」
 頭の中にタッタランタラララン~とヱビスビールのCMが流れる。
 春になって頭の具合が悪い気はしていたが、とうとう幻覚を見るところまできてしまったかという落胆にうちひしがれる私をよそに、恵比寿神様(自称)は突然の来訪をわびるわけでもなく、単刀直入に用件を話し始めた。
 年寄りの話はくどくて長くて、すべてを書いていると日が暮れそうなのだが、要約すると「お前は熱心にヘラブナ釣りの勉強をしていて感心である。皆がなじみやすいようなヘラブナ釣りを追求しようという志も立派。ついては褒美にヘラブナ釣りの秘技を伝授してやる。」とのこと。
 秘伝を使って良い釣果を得てヘラブナ釣りを皆にひろめよ。それがこの神の思し召しらしい。
 人様に正解だけ教えてもらっても面白くもなんともないので、丁重にお断りしようとしているのだが、恵比寿様(自称)は、「そのような慎み深い態度もますますもって褒美に値する」とこちらのいうことを聞かない老人状態。
 そうこうするうちに、「では早速」とかいいながら恵比寿様(自称)は後頭部あたりからなにか触手のようなものを引っ張り出してきた。なんでもこれがUSBコードのようなモノで、脳から脳に直接情報を伝達することができる都合の良いSFのような有機的情報伝達機器らしい。
 どうみてもファンタジーもののマンガとかでヒロインを絡め取りそうな不気味な触手でしかないので、それをこちらの耳から脳に突っ込むとかを神を自称するジジイに迫られて、心の底から逃げ出したいと思い、その旨伝えたのだが、「大丈夫、先っちょだけ入れるだけだから、痛いのは最初だけ」とか、「絶対だまされる!」としか思えない台詞とともに不思議な力で抵抗する力を奪われ、不気味なジジイにそっと身をまかせるしかないのであった。
 ヌルヌルとした触手が耳の穴を押し広げるように入ってきたかと思うと、チクッと痛みが走った。
 はじめての経験にわななく暇も無く、次の瞬間膨大な量の情報が、論理立てた言語として、同時にイメージを伴う映像的に、重ねて経験したかのよう五感に響くように雪崩れ込んできて、一瞬にしてそれらありとあらゆるヘラブナ釣りに関する技術的、戦略的な情報を自分が理解したことに気付かされた。
 浮子はどうあるべきか、餌の状況毎の調整の方法、ヘラブナ釣りの歴史と展望、人はどこから来てどこでヘラブナを釣るのか、戦争とヘラブナ、愛することと知ることとヘラブナ釣り、技術論にとどまらず哲学や信仰に近い部分までを網羅した情報は「ヘラ釣りの秘技」と表現してまず間違いのないものであろう。
 来週、月曜か火曜にはヘラ釣りデビューだが、今の私ならヘラブナの5匹や10匹釣ることは造作もないことである。
 例会や大会に出ても、タイトル総なめにできるだろう。そうやって、正しいヘラブナ釣りを普及させていくのが「ヘラブナ釣りの恵比寿様」が私に望むことだと理解した。
 私は、神と共に行く。私の歩みを止めるものはいない。


 まあ、嘘です。4月1日ですからね、ちょっと楽しいネタをと書いてみました。

 餌は、どうすりゃいいんだろ?と悩むばかりで、一応作戦を練って事前の実験などもしてみたけど、グチャグチャ考えとらんといっぺん釣ってこいっちゅう話で、まあ釣りながら考えるのかなというところ。一応苦戦具合はサイトの「工夫」に「餌色々の研究」として上げてますので、これまたお暇なときにでも。

 仕掛けも作ったんだけど、ハリ結ぶのも外掛け結びでよければ楽勝だろうと思っていたところ、年食って手先が思うように動かない感じで、刺し餌用の2号のハリとか結んでると上手く結べなくてイィーっとなるので、商品名「スピードハリ結び」というハリをつまんで固定して、磁石の間をグルグルくぐらせてホイな感じの道具を買いました。便利。





 オモリが鉛を使わないという縛りでいこうとすると、一番小さいスズのガン玉でも微妙な浮子のトップの目盛りの上下調整には大きすぎて、かといって削るにしてもスズのガン玉結構堅くて上手くいかない。なんとかならんかと考えて、スズ製の板オモリはなくても、スズの針金ぐらいホームセンターとかで売ってないだろうか?と調べたところ鉛不使用のスズ主体のハンダというモノがあることが分かり、これとスズのガン玉の組み合わせで調整しようと今のところ考えている。スズハンダはパイプに巻き付けてみたが、これで絡まったりしないか実戦で様子を見てみたい。

 もいっちょ、たも網であるが、むかし外国の研究者がネットの素材毎にリリース後の生存率を調べたデータを見た記憶があり、その時一番良かったのがラバーネット、次に良かったのが意外なことに目あいの大きなネットで、その他は細かい目のネット含めあんまり成績良くなかったように記憶している。
 リリースが徹底されているヘラブナでも友アユのダメージが釣果に関わってくるアユ釣りでも、もっというなら観賞魚の世界でも目の小さな網が「ダメージ少ない」という理由で使われていると思うし、特に観賞魚の世界とか商品傷つけないことには神経つかってるはずだけど、このデータとの乖離はなんぞや?と疑問は晴れない。
 まあ、でもラバーネットはよさげに思うので使ってみて、ヘラ釣りには目の細かいネットが良いという人がいたら、その根拠を教えてもらうこととしよう。

 準備はちゃくちゃくと進んでます。秘技はおろか基本的な技術の習得から始めなければならない初心者だけど、そのあたりもおおいに楽しんで進んでいきたい。
 桜も咲けば、魚も釣れるだろう。

2017年3月25日土曜日

ウキウキしちゃうの!だって春だもン!


 春になると頭に虫でも湧くのだろうか。なんとなく気もそぞろ。

 都心では桜も咲き始めたとかで、今週ヘラブナデビューしてしまおうかと思っていたけど、リハビリで通勤の練習のため電車乗って出かけるというのをやっていたら、思いの外疲れてしまい機会を逸した。
 朝のラッシュは避けたのだが、混んだ電車ってこんなに疲れるもんだっけ?という感じでボチボチとリハビリに励んでおります。

 電車に乗って出かけた先は、まあ釣り具屋だったりするのだが、その他にも三鷹市美術ギャラリーで開催されていた「根付-江戸と現代を結ぶ造形-」という企画展を見に行ってきた。

 根付けというのは財布とかを紐で帯に留めるために使う3~5センチぐらいの象牙や木製の細工物で、美術蘊蓄マンガ「ギャラリーフェイク」でプロフェッサー藤田が指摘していたように、現代だと携帯ストラップに通じるような日常に根付いた彫刻作品である。
 もう、そういう日常品にちょっとした「粋」を求める日本人の感性の象徴みたいなモノで、展示されていたのは当然逸品ぞろいだというのもあって、なかなかの眼福であった。
 ヤツデの葉の上に鹿の角が落ちていて、その鹿の角の裏側に蜂がとまっているなんていうのは、どうやって彫ったのかと感心するとともに、表側に蜂を彫らないところは美意識と技量の誇示と共に、帯に留める時に引っかかって壊れないようにヤツデの葉と鹿の角の間に蜂を配したんだろうな、とか想像すると、実用の中の美というのが立ち上がってくるように感じる。
 300個ぐらい展示されていたんだけど、その中で一番そそられたのが、現代の職人さんが彫った「綱渡り」という作品で、ナマズの髭をアマガエルが綱渡りしているという滑稽感たっぷりなもの。
 3センチぐらいの小さい象牙の作品なのに、ナマズの腹びれのピッと両側に開いた感じとか、アマガエルのアイラインとか特徴がキッチリおさえられていてナマズ、カエル大好きなナマジとしては、一瞬、警備の隙を突いて盗み出すにはどうすれば良いかと考えてしまうほど魅力的だった。

 そういった名工達の職人芸に触発されてというほどでもないんだけど、今週は「ヘラ浮子」をサクサクッと作ってみた。作成の様子などはサイトの方の「工夫」に「ゆるふわヘラ道」のコーナーを設けて「「ゆるふわ」に浮子を作ってみる」という題で上げているので、興味があればお暇なときにでもご笑覧いただきたい。

 浮子を作るために、ネット、書籍、映像、様々な参考資料にあたってみたけど、何というか「ヘラ浮子」の世界では、物理法則を無視したような「オカルト」な浮子が存在するような説明が散見されて胡散臭さに苦笑を禁じ得ない。まあ、想像通りという感じではある。

 私がヘラ釣り始めるというのを知って、最近へらにハマっているという釣友が電話してきてくれた時にも、「物理分かってないような人が浮子作ってたりもするから、浮子は自分で作ってみるといいよ」とお勧めされていたのだが、「物理分かっていない」のレベルがこれほどまでかとは想像していないぐらいに酷かった。
 もっとマニアックに、私などなら考慮に入れないぐらいの、浮子のボディー形状の違いによる浮子が沈むときの流体力学的な水の動かしかたの変化だとか、その辺の難しい「物理」で、なにも分かってない私のような初心者を煙に巻いて「オカルト浮子」を売ろうとしてやがるんだろうなと思っていたら、なんと「アルキメデスの原理」の否定という「ちょっと待ってくれ」なご無体をしれっとやってて驚く。

 「アルキメデスの原理」は簡単に書けば「液体中の物体は、その物体が押しのけている液体の重さと同じ大きさで上向きの浮力を受ける」となるだろうか。
 なので、浮子がオモリと餌を背負ってバランスしている状態からアタリがあって、例えばトップが1目盛り沈んだとしよう。その場合に生じる浮力、言い換えるとアタリで引っ張られた力と同等の浮力はトップ1目盛りが押しのけた水の重さと同じである。
 浮子のボディーが軽くて大きかろうと、沈んでいない分のトップがいくら残っていようと、バランスした状態からトップ1目盛り動いたのなら、そのトップ1目盛り分だけ浮力が発生する。

 にもかかわらず大手メーカーのサイトで、テスター様がご自身の作ったらしい浮子を説明して「トップのグラスムクも足のカーボンも沈む素材なので、アタリに対して沈む方向に力が生じます」的なことをのたまっている。アタリの時点で素材の比重で沈む方向に力がかかってるんだったら、そのまま水底まで沈むってば。バランスして浮いてる時点で沈む方向の力なんてゼロになってるでしょ。浮子からオモリからハリ餌まで含めた仕掛けが重力に引っ張られる力と生じた浮力とが足し引きゼロになってるんだって。アタリがあったからっていきなり謎のフォースを発生させないで欲しい。
 そのオカルト浮子にアタリが大きく出る理由は、物理の基本通りグラスムクが細いので同じ長さを沈めるのに力が少なくてすむのでアタリが大きく出るというのが主なモノで、派生して魚が引っ張ったときに感じる違和感が小さいのでそのまま引っ張る距離が伸びるという視点もあるだろう。
 わざわざ浮子自体の浮力の小さいものを使った効果としては、ひょっとして、その分使うオモリが軽くなって魚が横に引っ張ったりするときの抵抗が小さくなったとかもあり得るかも知れない。
 「物理が分かっていない人が浮子を作っている」の意味がよく分かった。

 逆に、メーカー側の方が丁寧に説明しているブログに粘着質にオカルト理論をひっさげてクダを巻いているのも見かけた。
 アタリの時の感度について「トップが押しのけた水の重さが生じる浮力であり感度である」「同じ太さならムク素材だろうとパイプだろうと感度は一緒」というような説明に、最初「水中ではバランスしているが、その上の空中部分は別に考えなければならない」などと意味不明な供述をしており、浮いている船の水上部分と水中部分を分けて考えるようなことはしなくていいですよ的な説明になおも「ラインが金属で変形しないならそうだけど流れもあるからラインはたるむこともあって云々」と浮子の水上部分と水中部分を分けるべきという最初の主張を勝手に引っ込めてなおもクダを巻く往生際の悪さ。
 まあ、浮子とオモリ、餌の間にラインがあることによる浮子の感度への影響はなくもない気がする。極端な例を出すと、魚が食い上げてオモリを引っ張り上げてラインがたるんだ、てな時に浮子自体が比重の軽いモノならすぐに浮き上がってアタリの出る「感度の良さ」があるのかも知れない。逆にムクトップを使った比重の重い浮子なら、オモリが同じ重さだったなら、より大きな浮子になっているはずでユックリと「感度の悪い」鈍感な反応をするはすだ。
 でも現実的にラインたるむまで食い上げたりするんだろうか?食わなくてもラインにあたる「さわり」を感じ取れるかどうかという話もあるので、まったく考慮が必要ないわけでもないけどとりあえずは無視して良いのだろうか?底釣りの浮子では足に竹まで使って全体の浮力を出しているような浮子が多いけど、実は餌の重さ分軽くなる食い上げアタリを取るためにそうなってたりするとかあったりするんだろうか?まあ細かいところはおいおい考えていくとしよう。


 ただ、細かいところはさておくとしても「感度ってなに?」ということを真面目に考え始めると、先のブログの方の説明はちょっとバッサリ切りすぎな気がする。
 「浮子のトップの動く長さ」がすなわち「感度」なのかというと、それは言い過ぎのように思う。
 「同じ太さならムク素材だろうとパイプだろうと感度は一緒」という説明について、実験で同じ太さのパイプとムクのトップの浮子を作って、バランスさせた状態から同じオモリを追加でぶら下げてみて、さあ同じ目盛りだけ動きました。やっぱり「感度」は太さだけが関係するでしょ?というのを良く目にした。
 どれだけ力をかけたときにどれだけトップが動くか、つまりトップの最終的な「動きの大きさ」だけが「感度」そのものならその通りだが、私は違うように思う。まだデビューもしていない新米ヘラ師志願兵の私が違和感を覚えるぐらいだから、実釣経験の豊富なベテランから異論が出るのもむべなるかな。

 この実験に私なら、追加で別の実験を見せて印象を反転させることができるように思う。
 同じ太さの同じ素材のトップを2本用意して、ボディーの大きさを極端に変えた浮子を作る。そしてバランスさせた上で同じ重さのオモリを追加する。
 当然バランスさせる時点でオモリの重さが全然違う。でも、追加したオモリで沈むトップの長さは太さが一緒なら全く一緒。
 じゃあこの実験に使った2つの浮子というか、オモリも含めた仕掛けの「感度」が一緒か?と聞けば、誰でも直感的に「違うでしょ」と理解するだろう。
 仕掛け全体の重さ大きさが違えば慣性力だの水の摩擦抵抗だのかかってくる「ややこしい物理的な力」が違うはずで、動き出させるのに使う力や落ち着くまでにかかる時間が違うはずである。
 一緒だというのなら大が小を兼ねてしまう。浮子などクソでかいの1本しか使わなくていい。

 「感度」って何に対してなのか?という視点によっても全く答えが違ってくると思う。
 乱暴に言ってしまえば、小さなアタリを大きな動きで拾えるのが「感度」だとすれば細いトップの方が大きく動くので「感度」が良いとなるし、瞬間的な素早いアタリを拾えるのが「感度」が良いとすれば太いトップの方が戻りが早いはずで「感度」が良いとなる。
 浮子のトップが大きく動くにはそれだけ魚が長い距離を引っ張っているわけで、浮子のトップ以外サイズと比重が同じだとしてもその分時間がかかるので、ユックリともたもたと「大きく動く浮子」は動く。その間に、「小さく動く浮子」は短いアタリを複数回とらえ得る、なんてことが言えるように思う。
 机上の理論で素人が馬鹿臭いことを書いていると思われるかも知れないが、どんなヘラの教科書にもヘラ浮子は、アタリ以外にも魚がオモリやラインに触れた「サワリ」や餌の状況なども含め水中を知るための指標である的なことが書いてある。
 「サワリ」の感度なんていうのが、ジワーッとアタリが出る細くて「大きく動く」トップの浮子では良くなさそうだというぐらいは想像できる。たぶん、間違ってないだろう。

 じゃあヘラ釣り師が浮子に求める「感度」ってなんなのよ?と考えると、それは状況によりけりでその時々で違う、というありきたりなしょうもない答えになってしまうのだろう。だからこそ、あまたの種類のあまたのサイズのヘラ浮子が作られているのに違いない。
 浅棚で「サワリ」を出しながら、魚の寄り具合を探りつつ「食いアタリ」を取っていくのなら、太めのパイプトップの軽めの浮子が良さそうだとか、冬場の動かない魚が食った微妙なアタリを大きく拾って、かつ魚に違和感を感じさせないようにするなら、ほっそいムクトップの付いた比重もあんまり大きくない引っ張られたらそのままズルズルと水没してしまうぐらいのダルい浮子が良いんだろうなとかぐらいは分かるとともに、どんな状況でも「ハリがかりするするようなアタリ」だけを拾えるような魔法の「オカルト浮子」は、やっぱりこの宇宙の物理法則に従うかぎり存在しないんだなと理解するところである。

 「感度」が良い。というのを「トップが大きく動く」という意味だけで考えていると、「グラスムクの細いトップの付いた浮子が一番感度が良いらしいから、それが一番良い浮子だろう」と勘違いしてしまいそうである。それでいいのならもっと極端に、徐々に沈んでいく浮子とか作れば良くなってくる。
 またナマジが何もわかっとらんくせにあほなことを書いていると思うかも知れないが、徐々に沈んでいく浮子はグレ釣りとかタナゴ釣りでは当たり前に存在する。
 なんで、わざわざ沈めるんだろうと薄ぼんやりとした疑問が頭にずっとあったが、ここ数日ヘラ浮子を作って、浮子のことを考えて頭を整理していたらとても納得がいった。沈みつつある浮子は浮いてる浮子より抵抗なく引き込めるという単純明快な利点。
 今時のヘラ浮子ではポリカーボネイトのムクトップの優位性が謳われている。そのなかで、餌がユックリなじみ込む時のアタリが拾えるから的な記述をいくつか目にしたが、まさにその状態は餌の重みで「沈みつつある浮子」なんだなあと合点がいった。最初なんでそんな短いタイミングのアタリをことさら重視するのか良くわからんかったが、正直、理屈じゃなくて経験則でそれを導き出しているであろう先人達に敬意を覚えるところだ。

 にしても、浮子なんてオモリとハリと餌背負って浮いてるだけだし単純な話のはずで、あれこれいろんな種類の浮子があるのも、どうせ作ってる方が売りたいだけやろ、と勘ぐっていた。その勘ぐりはある程度正しくもアリ間違いでもあった。
 ずぶの素人が、ここまで整理するまでたどり着くのに、いかに多くの記述にあたらなければならなかったか、いかに「オカルト」な謎理論が横行しているか、「誰か正しくわかりやすく整理してくれよ!」という感じである。まあその役割の一端をゆるふわに担うしかないのかなと思うが。

 ルアーの釣りというのは、そもそもがたまたま湖に落としたスプーンにマスが食いついたのが発端という説があるぐらいで、釣れるとかいう「現象」があって、後から餌の魚のようにキラめくからとかいう「理屈」がついてくるような「それホントにあってるの?」という疑問がつきまとう「経験則」な釣りなので、勢い「オカルト謎理論」が猛威を振るっているのだけど、餌釣りって外から見ているともっと技術的に体系立てて理論が整理されているモノだと思っていたのだが、そこは同じ穴の釣り人であり、どうしようもなく「釣り人」らしいと思わされる有様だと痛感した。

 比較的単純だと高をくくっていた「浮子」ですら釣る前からこれほど悩まされるのである。これからヘラ釣りで一番面倒くさそうな「餌」について、事前のお勉強をしなければなるいまいと思うと、気が重いとともに同じぐらい楽しみでもある。つくづく面倒くせェ釣りに手を出してしまったモノだ。

2017年3月18日土曜日

「敷居が高い」の敷居の高さ

 「敷居が高い」って言葉、自分「ヘラ釣りは敷居が高い」とか使ってるけど、これってひょっとして「誤用」じゃなかったっけ?と気になってサクッとネットで調べてみたら、やっぱり「誤用」の例に出てくる筆頭の言葉の一つで、本来の意味は「不義理をしてしまい行きづらい」というもので、私が何の気なしに使っている「難易度が高い」あるいは「格式が高い」といったような意味での使用は「誤用」であるとしている説明がネット上の記事ではほとんどである。

 なので、過去の文章で「難易度が高い」的な意味で使っていた「敷居が高い」は「ハードルが高い」あたりに修正してしまおうかとも思ったんだけど、いまいち釈然としない引っかかりがあったのでもうちょっと突っ込んで調べてみた。暇だしナ。

 調べてみると、釈然としない部分の理由がある程度見えてきた。要するに「誤用」とされる使い方が、広く一般的になってきていて「人口に膾炙」してしまっているので、むしろ本来の意味がピンとこなくさえなっているから、「誤用」と断じるのに引っかかるのだと思えてくる。

 データを出してみると、2013年10月15日に小学館の「大辞泉」編集部が発表したらしい(ニュース記事には残っているが大辞泉ホームページの発表記事にみあたらないところが意味ありげ)、「間違った意味で使われる言葉ランキング」では、「敷居が高い」を「高級すぎたり、上品すぎたりして入りにくい」とする「本来と異なる意味」で使うとした調査回答が61.7%と「本来の意味」である「相手に不義理などがあって、その人の家に行きにくい」の27.8%と逆転しており、堂々第7位にランキングされている。
 ちなみにランキングは順に「ハッカー」「確信犯」「他力本願」「破天荒」「姑息」「失笑」「敷居が高い」「(話の)さわり」「なし崩し」「悪びれる」で、正直「本来と異なる意味」が明らかに変だと思ったのは「失笑」と「悪びれる」だけ、「本来の意味」も知っていたのが「確信犯」と「さわり」と「敷居が高い」ぐらい。お恥ずかしいかぎりだが、これらすべての言葉で調査回答の逆転現象が起きているので皆さん御同様のようでもありちょっとホッとしている。
 「確信犯」なんて本来の意味知ってるのは刑法学とか囓ったことある人間かミステリ小説好きぐらいのはずで、私も本来の意味は知っているけど、本来の意味で使うことはなく、もし本来の意味で使う機会があるとすれば「刑法学上の元々の意味的な「正しいことだと思い込んでする犯罪」の意味での確信犯」と長々と説明せざるを得ないと思っている。なにせ調査回答77.4%対12.7%である。本来の意味を説明もなく使ったら反対の意味に伝わって意思疎通ができない。

 言葉というのは「生き物」であって、時代と共に変化していくもので、その時代に多くの人間が使っている用法を「本来の意味と違う」という理由だけで「誤用」と断じるのはいかがなものかと思うのである。
 言葉が時代と共に変化していく端的な例を出すなら、古語では今の緑色は「青」だった、あたりだろうか。青葉とか青蛙、アオバトあたりはいずれも「ミドリやんけ」という色をしているが古語の名残なんである。

 という、時代と共に変化する言葉をとらえて、「敷居が高い」について、三省堂国語辞典では第六版で「気軽に体験できないの意味」を<あやまって>いると表示していたものを、2014年に出た第七版では、本来の意味に加えて用例として「2 近寄りにくい」「3 気軽に体験できない」を掲載しているようだ。
 依然として「本来の意味」しか載せていない辞書が多数派だろうし、識者の間でも「誤用」説のほうが強いのかもだけど、以前にも書いたようにネットの匿名の誰が書いたか分からん無責任な記事とちがって、辞書だの図鑑だのに書いた情報が間違っていたら、書いた人間の恥になるので書いてる人間の覚悟が違うから信頼性が違うと思っており、私の「誤用」をチャラにしてくれそうな説に則って新たな用例を載せてくれた先生はどこの誰じゃろかい?と調べてみたら、三省堂国語辞典編集委員の飯間浩明氏らしく、ご本人のツイートに、
 「「敷居が高い」が「気軽に体験できない」の意味で使われだしたのは1980年代以前ですが、広く知られたのは2000年以降です。当時『三省堂国語辞典』は誤用と認定。この用法への批判を助長した疑いがあります。現在の版では誤用表示はやめました。」
 「「哲学書はむずかしくて敷居が高い」のような用法は、「ハードルが高い」とも言い換えられず、他に適当な言い方もないため、一般に広まったのは当然とも言えます。意味の自然な拡張であり、これをいったん辞書で「誤用」と認定したのは早まったと反省しています。「誤用」の認定はむずかしいものです。」
 とある。潔い!なんという正直で誠実な人であろうか。自分の過ちをチャラにしてくれそうな説がないかとネットをうろつくような輩と比べるべくもない高潔さ。
 最近、ネットで簡単なことなら調べられるので辞書を引くことがなくなったけど、ネットの情報なんて繰り返しになるけど、どこの誰ともわからんヤツが書いた無責任なネタであり、良い電子辞書は買わねばならんのかなと思うところだが、三省堂国語辞典第七版は候補だなこりゃ。

 ツイートに「「気楽に体験できない」の意味で使われ出したのは1980年代以前」とあるけど、どんな事例があるのかなと、さらに突っ込んでみたら、哲学者の西田幾太郎が1942年のエッセイで不義理をしているわけでもない文脈で使っているとかも出てきて、もし、鬼の首でも取ったように「不義理以外の意味で「敷居が高い」を使うのは誤用である」とか指摘されても、絶対矛盾的自己同一的に正しいんですと煙に巻けば良さそうである。
 途切れもなく変化しつつある状態の言葉というものについて、正しい答えが一つあってそれ以外を「誤り」と断じてしまう危うさ自体も、「釈然としない引っかかり」を覚えた原因の一つかも知れない。

 最近だと、「接客業の使う敬語がおかしい」という論調を良く目にする。確かにちょっと変だなと思うような言葉使いもあるけど、注文を繰り返して「・・・でよろしかったでしょうか?」というのは「・・・でよろしいでしょうか?」とするべきだとかあたりになると、アンタのさっき言った注文は・・・だったのかという過去形の問いとしても成り立つわけで全然エェやないか、と思ってしまう。
 書いてて気付いたけど「全然+肯定」という言葉遣いは、自分の生きてきた時代の中で一般的になった言葉遣いだと思う。初めてそういう言葉遣いを目にしたときに、全然のあとには否定的な言葉がくるはずなのに、なんて「ナウい」言葉遣いなんだと衝撃を受けた記憶がある。「ナウい」という言葉が人口に膾炙したころにはその言葉は「ダサい」と思うようなマセガキだったので、全然+肯定表現初体験は70年代の話だったと思う。と思って全然+肯定表現もちょっと調べてみたら、昭和の初期ぐらいまでは普通に使われていて、その後、全然は否定表現に限られるようになっていったという歴史があって、また肯定表現にも使われだしているらしい。っていうぐらい言葉も変わるんである。

 行き過ぎた「言葉狩り」が害悪であるのは、方言と標準語の関係を見ても明らかなように思う。方言が誤りだなんて差別的な思想を今時主張する人間はいないだろう。多少違っていても、みんな違ってみんな良いんである。

 じゃあ、標準語やら正しい言葉を考える偉い学者先生とかは害悪なのかというと、そうじゃなくて、言葉が他者に情報を伝えるための道具であるからして、みんなに伝わるような標準的な言葉を選んだり、正しいと思われる言葉の使い方を考えたりするというのは当然必要で、NHKのアナウンサーが全国放送で一地方でしか通じないような方言を使ったり、誤りを助長し言葉の意味を不自然に拡散させてしまうような言葉遣いをしては問題なのは当たり前なので、偉い学者先生はやっぱり偉いのである。

 そういう偉い先生方はじめとした識者やそうじゃない人も含めて、いろんな説を戦わせたり、自然に変わっていく言葉に追従したりもしながら、「標準的な言葉」っていうのは落ち着くところに落ち着くもので、正解があるようなないような曖昧模糊とした線引きのできないことも多いものであり「公式見解がこうですから明日から従ってください」とかいう性格のものではないのだと思う。
 昔どっかの教育委員会だかが女性器の新しい呼称として「オパンポン」という言葉を提唱したとかいう話があって、まあ「落ち」としてはそんな「お上」が作ったお仕着せの言葉は全く定着しなかったということなんだが、そういうものなのである。世界の中心でオパンポンと叫んでも恥ずかしくないぐらいに人口に膾炙しなかった言葉である。
 
 とか書いてて、公式見解あったりしたらどうしようと、言葉という文化を扱う公的機関といえば文部科学省だろうと、またサクサクと調べてみた。
 文部科学省の下の文化庁の「国語に関する世論調査」というのが出てきて、平成20年度には「敷居が高い」についても調査されており、「本来の意味ではない方が多く選択されるという結果になった」と結果報告だけされていて、「本来の意味ではない使い方」については良いとも悪いとも正しいとも誤りとも書いていない、実にお役所的な歯に衣着せた奥歯に物の挟まったような調査報告である。でも、やっぱり「書けない」のが正しいんだろうなというのはこれまで書いてきたとおり。

 というわけで、答えがないような「どの言葉をどの意味で使うべきか」については、まず言葉の使用者として伝わりやすい表現を使いたい、というのが第一に考慮すべき点で、本来の意味と違う使われ方が一般的な言葉は、本来の意味と違っていても、他に無用な混乱を避けられるような言い換えが無いようなら分かりつつ使おうと思う。逆に本来の意味で使わなければならないのなら、「確信犯」で例示したように注釈をつけて使わざるを得ないだろう。
 もう一つ考慮するなら、「正しさなんてクソ食らえ」で勢いと感性で書くのもありだというところか。
 ローリングストーンズの「サティスファクション」の歌詞「I can't get no satisfaction」が、直訳すると「私は不満足を得ることができない」と二重否定になって結局「満足だ」という意味に文法的にはとれるんだけど、実際には「勢い」で強く「満足を得ることができない」というニュアンスが伝わるいい歌詞なんだよ、と解説されているのを目にして、面白い言葉の使い方だなと感心すると共に「I can get no satisfaction」だと思って普通にそれまで聞いていた自分の英語聞き取り能力のお粗末さを恥じたものである。
 

 まあいずれにせよ、「敷居が高い」という言葉に対して、本来の意味を知りつつも「本来の意味と異なる使い方」を許容するという「不義理」をしながら、変わりゆく言葉の実態と言葉はどうあるべきかという「難易度が高い」問題の明確な答えを見いだすに至らない私にとって、「敷居が高い」という言葉は敷居が高いと書くのは正しいのだろう。

2017年3月11日土曜日

バカには付ける薬もなく死んでも治らない

 あの震災から6年が経ったと聞くと、あっという間のような気もするし、ずいぶん長い時間が経ったようにも感じる。

 色々と思うところはあるけど、6年経って不安に思っていたことがほぼ的中しているので、また怒りにまかせて書かざるを得ない。

 書くことは同じことの繰り返しだが、原発反対と高い防潮堤反対の2つ。

 原発については、なぜ福島第一の後始末も終わってないのに、原発を再稼働する方向でことが進んでいるのか理解に苦しむ。既に国内で2基再稼働しているらしいが、原発稼働していない間も別に困ってなかったようにしか見えない。
 二酸化炭素排出量削減だの、エネルギー源の一極集中の回避だのは、目先の福一の核燃料処理だの汚染土の処分方法だのの危機的状況をどうにかしてから考えろ、それも原発抜きを前提にだ!と思う。
 なんというか、便所行ってケツも拭いとらんくせにテーブルに着こうとするな、まずはテメエのクソの始末ぐらいつけてからにしやがれ!といいたい。飯がまずくならァ。

 防潮堤もアホくさいぐらいの高さのがあちこちできはじめている。震災前には間違いなく、自然災害は防ぎきれるモノではないので、100%ハードで防ぐことを目標とせず、避難手段の確保などソフト面の充実で補っていくという方向性が、当の土木屋さん達も含めて合意が得られつつあったと認識している。
 それが、震災復興と人命重視の美名のもと、もとの木阿弥である。
 土木屋については、最近、近所の川の二段になった土手のうち水面に近い方のコンクリの土手の上にたまった土砂を増水時の流路確保のために取り除くというアホな工事を見せつけられているので、ことさらに腹が立つ。
 何メートルもある上段の土手を越えるような増水時に、下段の土手に積もった50センチあるかないかの土砂がどれだけ邪魔になるかって話で、そもそもそんな強烈な増水なら土砂ごと流れるってオジサン思うんだけどどうなのよ。
 くっだらねえ金使うためだけの工事で、草木も生えてカワセミもコゲラもいる河原の土手の生態系根こそぎかっさらうってのは、どういう了見だっての。ほんとくだんねぇ。
 シーバス釣りの帰りに夜、土手の上を通るたびに、停めてあるユンボの運転席にクソでもしてやろうかと思うのだが、大人げないので思いとどまっている。


 私が全く理解できないでいる事柄が、少なくとも専門家も携わった意思決定機関を通したうえでまかり通っている事実を見ると、理解できている人が少なからずいるはずである。
 そう思うと、実は自分がよっぽどのバカで、ボケナスで、情報収集と解析の能力に問題があり、論理的思考能力を欠く、アンポンタンのアンケラソウのトンチンカンの無知蒙昧で魯鈍な頓馬の抜け作で、哺乳類ならタールの池にハマった獲物を食おうとして自分もハマったスミロドンぐらいまでさかのぼらなければ例を見ない知能の低さで、短文形式のツイッターでわざわざ何回にも分けて長々と講釈をたれているような輩の話を鵜呑みにするような情報弱者で、水仙の花になるぐらいのうぬぼれ屋で、マルチ商法に引っかかる意識高い系のようなカモネギな世間知らずで、メスに寄生するミツクリエナガチョウチンアンコウのオスぐらい何事も他人任せで、「私は自分の目で見たモノしか信じない」とかいいながら手品を奇跡と信じ込むような盲信者で、カエルの背中に乗って川を渡るときにカエルを刺すサソリぐらい融通が利かず、趣味の蕎麦打ち程度で「蕎麦は奥が深い」とか言っちゃって脱サラしてそば屋を始めるもすぐに店をたたむ羽目になるような勘違い野郎で、胃に収まらないワカサギが口腔内に溢れているにもかかわらずさらに食おうとして口を開くたびにワカサギが逃げ出してる大イワナのように近眼視的で、大きな排気音をあげて走ると車が速く走っているだけなのにアクセル踏んでるだけのくせして偉そうな態度を取る輩ほど幼稚で、ロバに乗って風車に突撃するぐらい暗愚で、古代怪獣ツインテールの天敵ぐらい愚鈍で、私の母はデベソで私の父はマザー○ァッカーなのではないか、と心配になってくる。


 バカには皮肉が通じないときがあるので、親切に説明してやるなら、上の段落は「オレから見るとオマエらとんでもねえバカにしかみえない」という意味である。まあバカの相手をしている時点で自分がバカであることも否定できないことは知ったうえで口汚くののしったつもりである。
 おわかりいただけたかな。バカどもめ。