2016年12月30日金曜日

2016年のベスト3(釣り篇)

 病気で寝てばっかりだった気がしているが、リハビリと称して釣りには結構行っているので、思い返してみると今年もそれほど悪い釣りではなかったように思う。
 
○釣り:1位早春の71、2位秋の運河シーバス、3位みんなでテナガ
 1位は早春のバチパターンを近所ポイントでキッチリはめてスズキサイズがやっと出た文句なしの結果。たぶん来年もはめれば悪くない結果が計算できそうな皮算用。
 2位は、週末ごとに雨が絡んでくれた今年の秋の空がもたらした好釣。近距離戦でいれば食ってくる勝負の早い釣りはどうにも好み。
 車運転するのがしんどい体調の私に、いつも車を出してくれていっしょに楽しんでくれたツーテンの虎ファンさんに改めて感謝。
 3位は、テナガ釣りとハゼ釣りがちょっと職場でも流行り始めていて、マイポイントに皆さん招待してワイワイ楽しめたのが嬉しかった釣り。小物釣りはみんなで楽しめる良い釣りです。

○残念だった釣り:1位冬のワカサギ、2位遠征、3位秋のカヤック
 1位はまあ、言ってもしょうがないようなことで、来シーズン体調整えてまた楽しめばいいさというところ。
 2位は、目指せアマゾン(通販大手じゃなくて南米ガイアナの)ということで11月に行けないかと情報収集したりしていたモノの、結局流れて、しかも11月には健康悪化で要自宅療養になったりしていたのでどのみち行けなかったのだけど、年1回ぐらい地球の裏側までではなくてもどっか行きたいなと、漂泊のおもいやまぬところである。
 3位は、結局1回しか出せなかったのは週末ごとに天気が悪かったのが主な原因で、その分運河が釣れていたうらはらなので仕方ないかと。体力落ちていて1回出したのもしんどかったので、体力強化はなんか考えねばと思うところ。

○ルアー:1位フラットラップ、2位ニョロニョロ、3位無し
 1位は今年も頼りになったぜフラットラップ。運河で絶好調で虎ファンさんにも布教完了。
 2位は、もう春はこれだけ投げてればいいやという感じになってきたぜニョロニョロ。
 3位、ということで投げるルアーが固定されてきたので3位は無し。新しいルアーとの出会いも楽しいのであれこれ買ってはみるけど、結局頼りにするのは定番だったりする。

○釣り具:1位ブリストール8、2位ランカーギアLGX66SM-2J、3位風雅
 1位、ブリストールの8f5本継ぎのシーバスロッドは、ナイロン8ポンドで釣るシーバスにはちょうど良いし、リュックの横に刺せて携帯性もよく春のメインロッドとしてこれからも愛用していくだろう。バックアップに2本目もぬかりなく押さえてある。
 2位は、運河の近距離戦用の6.5f、バス釣り時代からの愛竿で既に2代目で同じブランクスの竿が5本はストックしてある。グラスコンポジットの適度にダルいアクションがどうにも好みだ。60upのシーバスがこの竿をぶち曲げて暴れてくれるのは至福。
 3位は小物用の延べ竿。長年愛用の「白滝」が塗装もハゲハゲでぼろっちくなってしまったので色々探して、タナゴ釣りとか得意なお店がお薦めしていたのを購入。カーボンだけどかなり柔らかくダルめの調子で実に塩梅がよろしい。良い買い物でした。

○PENN:1位4400ss、2位430ssg、3位無し
 1位は、ブリストールとあわせて活躍の4400ss、今年も調子よく働いてくれました。まあ一生使うんでしょう。
 2位は、ランカーギアやパックロッドと活躍した430ssg。やっすいリールだけど壊れもしないしトラブルもなく好調。今後もよろしく。
 3位は、今年は遠征も無かったので普段のシーバス用のリール以外出番なし。倉には出番待ちのリールがうなってるんだけどね。


 とまあ、できる範囲で釣りに行く機会はつくる努力をしていたつもりだが、そのかいはあったのかなと振り返って思う。冒頭でも書いたが「悪くはない」ぐらいにはなった気がする。
 あんまり調子の良くない状態が続いているけど、来年も機会をつくって釣りに行くことは続けていきたい。

 皆様、良いお年をお迎えください。

2016年のベスト3(エンタメ篇)


 病気で寝てばっかりだった気がして何もしていないうちに今年が終わりそうになっているように感じるが、寝てばっかりいたおかげか小説やらマンガやらは結構な量読んでいるし、深夜アニメも冬春夏秋としっかり4期分視聴しており、やっぱり一年が経つのだなと感慨深い。まあそんなところで、今年の1年を振り返りつついつものようにベスト3を紹介してみたい。

○本:1位「ザ・ロード」、2位「沖縄文化論」、3位「ナマコのからいばりシリーズ」
 1位のコーマック・マッカーシー「ザ・ロード」はおそらくここ10年で最高の読書体験だったと思う。基本SFで最終戦争後の荒廃した世界を父子がさすらう話なのだが、難しいSF設定とかややこしい物理法則とかでてこないので、すべての人に読んでもらいたい傑作。角幡唯介、椎名誠両先生も絶賛しているが、私も強く推す。父性とは人間性とはという割と深いところにズンッとくる読み応え。
 2位、岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」は久しぶりに読んだ岡本太郎先生の本で、相変わらずキレッキレの視点や論点にうならされた。今の沖縄とも当然違う、占領下から復帰したての過渡期の沖縄の実態と、その頃まだ残されていた「沖縄らしさ」にみる日本の原点。
 3位、椎名誠「ナマコのからいばりシリーズ」。健康面問題抱えていた今年の、今一集中できないボケ頭でも、軽やかにサクサクと楽しめる椎名先生のエッセイシリーズの存在は福音であった。読んで頭を抱えて「人間とは?」とか思い悩んでしまうような大作ももちろん良いものだが、楽しくサクッと読んでそのまま忘れてしまってかまわないような作品もこれまた良いモノなのである。

○マンガ:1位「女子攻兵」、2位「バーナード嬢曰く。」、3位「ヴィンランドサガ」
 1位「女子攻兵」は、見た目が女子高生のロボットに乗り込んで、異次元の入植地で戦うという、絵面的に馬鹿っぽく、ふざけているような作品だが、これがなかなかに鋭いハードSFな物語で、主人公は自分の自我とロボットの自我のどちらが本物なのかとか、人間には及びもつかないレベルで事象を演算し予測し管理するAIが正しいのかそうでないのかとか、自己同一性の崩壊の危機を迎えつつも獲物を目指して闘いを続けていく。長く楽しみに読んでいたが完結した。読む人を選ぶかも知れないが傑作です。
 2位は、読書通ぶりたがる自称「バーナード嬢」こと町田さわこを中心に、4人が図書館に集まって読書会のように書評を話し合ったり、ド嬢の暴走に突っ込んだりという、基本「本読みあるある」ネタを楽しむマンガなのだが、回を重ね4人の親密さが進展するにつれ、そのやりとりに、心の中の若き日の記憶が揺り戻されるような「青春感」が醸し出されてきて、読んでて切ないような鼻につんとくるような感覚を何度も味わった。実に良いマンガ。今年アニメ化もしたが上手にそのへん再現されててこれまた楽しめた。
 3位「ヴィンランドサガ」は、今一番続きを楽しみに待って読んでいるマンガ。世に争いの種は消えず、21世紀になっても殺し殺されの復讐の連鎖はとどまることを知らないが、作中11世紀の元ヴァイキングの主人公は、復讐の鎖から逃れるために今絶賛苦闘中。戦争とは平和とは幸せとはとかど真ん中直球のテーマを描きつつも、戦闘シーンやら日常シーンのマンガ的表現のうまさでぐいぐい読ませる力量。面白いマンガとはこういものだという見本のようなマンガ。

○アニメ:1位「響けユーフォニアム2」、2位「この素晴らしい世界に祝福を!」、3位「JOJOの奇妙な冒険 ダイヤモンドは砕けない」
 1位、「2」ってだいたいテンション落ちるモノだが、まったく衰えるどころか面白さは増すばかりだった。文句なしの今年1番。吹奏楽部を舞台とした熱血部活モノなのだが、京都アニメーションの学園モノはどうしてこうも、オッサンの胸に「青春感」を喚起させるのか?たぶん色々あるんだろうけどとにかく真面目に真剣に丁寧にアニメを作っているのが一つの要因だろうなと思う。例を出すなら、登場人物が複雑な心境にあるとき、それを台詞で言わせるのではなく、表情やらで表現してそれが視聴者に伝わるだけのアニメ表現の上手さなんてのがあるように思う。
 今年世間では「君の名は。」「この世界の片隅に」「聲のかたち」あたりの劇場公開アニメが評判だったが(はよ地上波でやってくれ!)、テレビで深夜にやってるアニメも密かに面白いのである。
 2位の「この素晴らしい世界に祝福を!」は、一転して途中予算か時間がたりんかったような作画のショボい回もあった作品だが、それでも面白いモノは面白い。異世界モノなんだけど、ギャグの良い塩梅の楽しさと、女の子のキャラクターの可愛らしさが良かった。深夜アニメにはこういうアハハと笑って次の瞬間忘れてしまえるような楽しい作品もまた必要である。久しぶりに原作ラノベを買いあさってしまった。
 3位の「JOJO4部ダイヤモンドは砕けない」は、JOJOシリーズでも最も好きな4部のアニメ化とあって期待して視聴させてもらったが期待通りの良いアニメ化。お気に入りのネズミ狩りエピソードも仗助がクールに決めてくれたゼ。億安と仗助、露伴先生と康一君とかの友情関係が4部が面白い重要な要素の一つだなと再認識した。

 とまあ、今年も様々な創作物のおかげで、病床の無聊がずいぶん慰められた。
 これらがなければ退屈で死んでいてもおかしくないところである。深く感謝。

2016年12月18日日曜日

病床より

 病気で学校を休んでいる友人からスマホに、

「読書がはかどる!」
「さすが、読書スポットしても名高い・・・」

「 病 床 !!!! 」

というのがラインで送られてくるというネタが、施川ユウキ先生の読書を取り巻く日常を描いたマンガ「バーナード嬢曰く。」にあり笑わせてもらったのだが、しんどくて本読む体力も無い重症とまでいかないけど、おとなしく横になっているしかない病状だと、確かに本読むぐらいしか暇をつぶす手段がなく、読書がはかどる。

 ちょっと回復してきた私も読書をはかどらせている。まだ長い時間集中して読書する体力はないので、活字は軽いエッセイ中心、ほとんどの読書時間を読書といいつつマンガを読み散らかして過ごしている(マンガ読むのは一般には読書とはいわないが私はあんまり区別していない)。

 しばらく、ブログの更新もままならなかったので「ナマジ生きとんのか?」とご心配をおかけしたやも知れないので、病床の一日をレポートして、「まあ生きてます」とご報告しておきたい。


○起床
 8時頃にウダウダと目覚める。朝が弱いので、起きるのが楽しみになるように毎朝録画した深夜アニメを起きたタイミングで見るようにしている。深夜アニメの放送は週末の深夜が多いのだけど、一週間毎日見られるように分配して視聴している。今期は面白いのが多くて毎朝楽しめている。
 アニメ見ながら、ヨーグルトか果物程度の軽い朝食をとり薬を飲む。

○ネット
 アニメ見終わると、ネットでニュースを読んだり面白いネタがないか見回ったりして徘徊。その日読むマンガなりを購入してkindle端末に落とすなどもしてグダグダと過ごす。3日に一度くらい食料買い出しに外に出る。スーパーに行く途中の通りを渡る押しボタン式の信号でいつも待たされて地味にいらつくのが最近の悩み。

○昼食
 だいたい10時から11時頃に、卵かけご飯とか納豆とご飯とか簡単にすます。卵かけご飯は毎日食べても飽きない体質。

○昼寝
 何もたいしたことをしていないのに昼飯後にダルくて眠くなるので昼寝。読書する集中力を欠く日とかは退屈するので、寝て時間をつぶしてしまいたいとも思うのだが、だいたい1、2時間で目が覚める。

○読書
 昼寝の後はそのまま病床で読書。kindle端末は片手で操作できるので病床での読書にも好適。
 マンガは紹介記事を読んだりして面白そうなのを片っ端から「試し読み」機能で数ページチェックしてみて、絵柄に抵抗がなければとりあえず1巻買って読む。面白くて続きも買うのは5冊買って1,2冊というところか。
 活字はここのところは自炊してあったアーサー・ビナード先生とかオーケン先生の古いエッセイあたりを再読。

○夕食
 5時から6時くらいに夕食。煮物か汁物をおっきな鍋で作って3日ぐらい食べ続けている。ちなみに一昨日からの夕食は大根と豚モツのネギ塩味の煮物。

○夕食後のくつろぎ
 夕食後は、ネット配信の「アベマTV」で格闘技見たり、古めのアニメ見たり、ネットを徘徊したりしてグダグダ。
 2,3日に一度風呂に入る。風呂はめんどくさいので汗かかない限り毎日入る気がしない。
 
○就寝
 8時か9時頃に寝る前の薬飲んで床に戻って読書しながらウダウダしていると、10時頃には眠くなって眠る。夢はあまり見ない。というか見ても忘れているのだと思うが、最近釣りの夢を何度か見た。釣りに行きたいんだろう。


という感じで、細々と生きてます。年内こんな感じかなと思っとります。

2016年12月4日日曜日

休憩中

 「週末」顛末記の名に恥じぬよう、毎週釣りに行くのを目標にしていたが、ここのところ調子が悪くて行けていない。

 とはいえ、寝込むほどでも無くてネットしたりマンガ読んだりと自堕落な日々を送っている。

 食料買い出しに行く以外は引きこもりである。

 しばらくはこんなな感じで養生して、オイカワあたりでリハビリになるかなというところ。

 ブログも毎週末というわけにはいかないかも知れないけれどご容赦を。

2016年11月20日日曜日

手痛い停滞

 ここのところ体調が悪く、病院に行ったらまた「しばらく休むように」との診断が出てしまった。

 復職しては休んでというのも。ここしばらくで三回目なのでげんなりする。病気とか老いとか自分の思うようにはいかないのでもどかしい。

 もうこれは、治らなくて仕事も辞めてどこか空気の良いところに静養にでも行くしかないのではないかと、暗い気持ちになって、静養に行くならどこか良いかなと、ネット動画で高知のアカメやら宮崎のオオニベやら、山陰のシーバスやら、沖縄のロウニンアジやら、関東近郊のフナ・タナゴやらを見ていたらそれも悪くないなという気がしてきた。というか、何もかも捨てて放浪の旅にでも出てしまいたいやさぐれた気分だ。

 まあ、三度目の正直でスッキリ治って復活できるように休むときはしっかり休んでおくしかないのかなという諦念。

 床について二週間ほどで、すでに運動不足からか膝が痛い。体調見ながらだが釣りには行って歩いておきたい。車の運転はおぼつかないので、近所のシーバスか電車で行けるオイカワあたりをしばらくメインにする。今年のワカサギシーズンは棒に振ったくさいが、秋のシーバスはそこそこ釣ったのでまあ良しとしよう。

 ボチボチとというよりヨボヨボし始めた感じだが、まだしばらく生きていかねばならないはずなのでめげずに行きたい。

 


2016年11月13日日曜日

ラパラフラットラップの修繕

 これまでもフラットラップについては、頼まれてもいないのに褒めちぎる文章を書いてきたが、運河の橋の下パターンで私が主力としてフラットラップを使っている理由の一つである「壊れても修繕がきく」という点についても、ここに書いておきたい。

 橋の下にルアーを放り込んでいると、ガスパイプやら橋そのものやらにぶつけてよくルアーが壊れる。ザラパピーなどパキッと割れて上と下とで泣き別れになって頭の部分だけ戻ってくることもままある。
 ソルトウォーターグレードボーマーの丈夫なポリカーボネイト製のルアーだとぶつけてもあまり壊れないので重宝する。それでもモロぶつけると接着面が開いて浸水するぐらいはある。

 一方、ラパラのようなバルサ製のルアーは、強度はそもそもが柔らかいバルサを主材にしているのでそれほど無くて、ぶつけるとリップがもげたり、フックアイが閉じたり、塗装がはげたりボディーがひび割れてしまったりする。

 でも、バルサ製のルアーの壊れ方は修復可能な場合が多い。スペアの同じルアーをある程度持ち込んでおいて、壊れたら一旦持ち帰って修繕して、次回以降に復帰というのができるのである。

 リップがもげた場合は、実はもげたままでもアクションするのでそのまま使うこともできる。でも元のバタバタとしたアクションのほうが釣れそうな気がするので、直して使っている。
 リップの加工はアクリル板とかだとめんどくさいので、ルアーケースの仕切り板やフライフックのケースなど、やや柔らかい素材の板を用意して、調理用ばさみでジョキジョキと切って整形している。
 リップのサイズは元々のサイズより小さくても十分動く。留意するのはボディーの前の方の細い部分にリップがついているので、しっかり取り付けるために、貫通しているワイヤーの通る部分を切ってリップを整形するのが望ましいと思う。
 リップは「PANDO」等のウレタン系接着剤を何回か盛ってしっかりと接着しておくと、ぶつけてもとれにくくて良好。

 後ろのフックアイがつぶれてバルサのボディーにめり込んでしまうことはままあって、その場合はアイを折ってしまわないように、先の細いスプリットリングプライヤーを使って引っ張って形を整える。引っ張っても出てこない場合はアイを無理矢理引き出すよりはボディーをちょっと削るようにしてアイを露出させる。
 その後、瞬間接着剤を染みこませて乾燥させたら、ウレタン系接着剤でコーティングしておく。
 ウレタン系接着剤は固まってもある程度の柔軟性があるので、ぶつけたときに割れにくいように感じる。

 塗装がはげたりボディーがひび割れてしまった場合も、基本的に瞬間接着剤を染みこませて乾燥後、ウレタン系接着剤でコーティング。

 実際にそうやって直しながら使っている歴戦の強者が上の写真の固体。ボロボロな見た目になっているが、釣れっぷりは新品と遜色ないと思う。



 フラットラップの飛距離やアクションが「釣れる」ということはこれまでも書いたところだが、この修繕がきくというところもなかなかに侮りがたい要素で、投げるのに躊躇が少ない結果、よく投げる、よく釣れる、という良いサイクルにはまりがちなのである。
 そういう面も含めて私にとって「釣れる」ルアーなのである。

2016年11月6日日曜日

読書って、こう、もっと楽しいモノじゃないの?

 ここ数日風邪なのか体調が悪い、のどが痛くダルくてしんどい。釣りにも行けずに家で大人しく本など読んだりネットをさまよったりしている。

 「感受性が高い若いうちに読書をしておくべきだ」との記事を読んだ。

 老いも若いも読書を楽しめば良いと思うので反対するモノではないが、若いうちの読書が人格形成やら教養のために必須のような書き方をされ、「読むべき」的な押しつけがましいことを書かれるとちょっと違うのではないかと思う。

 基本的に読書なんてのは楽しいからやるのであって、人格形成やら教養のためにももちろんなるのかもしれないが、今日のように書籍以外のデータ提供の媒体も多い中、それが必須かと聞かれればちょっと疑問に思う。本などほとんど読まない友人知人もいるが、彼らの人格に問題があるとも教養が無いとも特には感じない。

 自分自身、人格形成やら教養やらに読書ももちろん影響してるだろうとは思うが、人から直接学んだもののほうが大きいように思うし、テレビやらマンガやらからも影響は受けている。特にマンガは今更ながら自分をかたちづくるうえで大きかったように思う。

 まあ、読めと強制されて読むのは「読書感想文」のようで気が進まないというところで、読まなきゃならないなんて思いながら読んでもつまらんのではないかと思う。

 だいたい、じゃあ歳食って感受性が枯れたら読書する意味が無いのかと聞きたい。
 そうじゃないだろと、歳食ってみずみずしい感受性は枯れてもその分経験やら何やらをつんで、もののあわれ的な味わいが分かるようになっているかもしれない。そのときそのときに読んで面白いと感じる部分は違うけど、それがまた面白いんじゃないかと思う。

 というのは、開高先生が人生相談「風に訊け」で読者からの「巨匠の渾身の作がそこいらの学生ごときにそうそう理解できるわけがない、と言われたけど、読む意味が無いのでしょうか?」との問いに答えた答えぶりのパクりだが、当時もなるほどと得心したが今でもそのとおりだと思う。

 読書なんて暇つぶしの一種でとりあえず退屈しなければ御の字で、あんまり過度な期待をするなというモノである。
 それでも、沢山本を読んできた中で人生を変えるような一冊なんてのも確かに読んだ憶えがあって、確かに読書は良いものであるとも感じるところである。
 若いときに読んだ「人間失格」の主人公への共感、「オーパ!」に感じた驚嘆。たしかに若いときしかできない読書経験だっただろう。

 でも、それらと同等以上に素晴らしい読書体験には今でもたまに出会っている。例えば、「ザ・ロード」なんてのは父となっていておかしくないオッサンだからこそ深い感動を味わえたんだろうというモノだ。
 これからも爺さんになっても、「楽しいから」読書は続けるだろうと思う。

 「読書は楽しい」それが、本を読む唯一のよりどころだと私は思うのである。

2016年10月30日日曜日

電子書籍経過報告

 電子書籍のkindle(キンドル)を導入したのが、2012年のクリスマス頃でかれこれ使い始めて4年近くになる。
 本体はカバーをかけて使っていたのでそれほどボロっちくはないけど、人工皮革のカバーが裏面はげたり、ページを送るために使う左手の親指があたる場所がすり切れたりとだいぶボロボロ感が出てきたので、新しいカバーを購入したところ。

 カバーのすり切れ具合からも「だいぶ読んだな」という気がするが、買った書籍の件数がはっきりデータに残っていて、それによると2800件ほど読んだようである。小説、エッセイのたぐいは200冊ぐらいでマンガが残りの2600冊ぐらいと、かなりの冊数になっている。
 電子版で買った他にも「自炊」した本が文庫本中心にマンガや雑誌含め1000冊弱あり、合計すると3500冊ぐらいがほとんど物理的スペースを食わずに、PCと外付けハードディスク、クラウドサーバに入っていることのありがたさをしみじみと感じる。多くの蔵書を自炊したので部屋の押し入れがスッキリしたうえに、検索一発で欲しい本が引っ張り出せるようになった。
 マンガも読んだあとに置いておく場所を取って仕方ないので、読んだら古本屋に売ってというのを繰り返していたが、スペースの問題がなくなって取っておけるようになって、気兼ねなく買いまくれる状態を楽しんでいる。マンガ買いまくり。
 年間の書籍代が数十万円にのぼっているが、その分の楽しい時間が得られているので満足である。

 電子書籍導入時、①欲しい本が買えるか、②あらっぽい雑な扱いに耐えるか、③ネットやPCへの接続のしやすさ、の3点を気にしていた。

 当初①については欲しい本が全然買えなかったので不満があったけど、だいぶ改善してきてマンガについては数ヶ月遅れの時もあるものの新作もほとんど網羅的に買うことができるようになってきた。小説エッセイに関しては、まだまだ網羅的とはいかないけれども、かなり読みたい本が買えるようにはなってきた。マンガに比べると遅れているように感じるが、何か理由があるのだろうか?

 ②に関連して、電池の持ちについては、電車の行き帰りと寝る前の1日2時間程度の使用だと、何の問題も無く使える。「書籍」購入時一旦PCを経由してUSBケーブルをつかってキンドルに落としているのだが、USBケーブルつなぐとキンドルに充電されるので購入時の接続だけで必要な充電が終了してしまう。
 10日を超えるような遠征釣行、とくに本読む時間の長い一人旅では1回の充電では間に合わず、予備の外付けバッテリーで対応している。
 紙の本のように気軽に扱えるか、については紙の本でも乱暴に扱えば破れるし濡れれば読めないので、同じようなものだと感じている。鞄に放り込んで気楽に読んでいる。
 紙の手触りがないとか読み心地が違うとか、こだわる人はこだわる部分かもしれないが、私は全く気にしていない。読めりゃええやんケぐらいに感じている。
 紙の本で買っても自炊してから読んでいる。ページめくりが片手で確実にできるので電車の中で読むのには電子書籍のほうが読みやすいのである。

 ③のPCやらネットやらからの「落とす」手順のやりやすさについては、PC経由で落としているのだが、ワイファイを使うと直接落とすこともできるらしいので、そのあたりは課題だが、今のPCとUSBケーブルで繋ぐやり方でもそれ程不自由は感じていない。

 総じて電子書籍については大変満足しており、もう紙の本は紙でしか出さない作家の本を買って自炊するぐらいになってきた。

 電子書籍はもう手放せなくなっている。

 電子書籍で恐ろしいのは端末の故障とサービスの停止で、端末の故障に関しては一度ソフトをアップデートしたら不具合連発して、初期化してグダグダとかめんどくさかったことがあるが、ぶっこわれたとしても端末を買い直して再出発という手があるのでなんとかなる。
 最悪なのがサービスの停止で、こればかりはそうなったら対策の方法がなかなか無いのが実際だと思う。
 さすがにキンドルが倒れたら暴動モノの話だと思うが、電子書籍の世界では客が取り込めずに撤退した異業種からの参入組とか屍累々なので人ごとながら恐ろしく感じる。
 大アマゾン様にはがんばっていただいて、これからもキンドルのサービスの滞りない提供をお願いしたいものである。

2016年10月23日日曜日

あるいは秋の味覚でいっぱいの海


 ここ3週連続で同居人のお母さんから食糧が宅急便で送られてきている。
 カキ、リンゴ等の果物に加えて毎回、サンマ煮とイチジクの甘露煮が入っている。

 おそらく同居人の実家でサンマとイチジクのもらいものが大量にあって、生で食べきれない分を煮て、さらに「お裾分け」で各地に宅配便で送っているのだろう。

 正直、お裾分け分だけでも3週連続ともなると食べきれないぐらいで、前回分のイチジク甘露煮がアルコール発酵し始めて、カブトムシ捕まえるときの餌のような状態になって捨てるというお百姓さんはじめ皆さんごめんなさいな状況になっており、正直飽きてきた気もするのだが、こういうコントロールできない、採れるときにはドサッととれてしまうのが農作物なり漁獲物の醍醐味だと思う。

 農作物ならまだ、作付面積だのの調整である程度は実る量をコントロールできるけど、それでも実る時期はだいたい決まっていて、採れるときにはドサッとあふれるぐらいとれる。それが漁業になると更に振り幅が大きくて、いきなり船が沈むぐらいの大漁になることもあれば、なぜか突然の不漁がやってくることもある。昨日もスカ食った。

 先日、シーバス釣りで調子よく釣れた日に「調子悪い日に分けて釣りたい」的なことを書いたが、全くそれは自然が相手である限り叶わぬ願いで、釣れるときに釣っておくしかないのである。まあ、それでもあんまり叩きすぎるとスレるので良い加減で満足して帰るというのも大事だとは思っている。

 農作物、漁獲物で、とりあえず沢山とれたときに食べきれない分を濃い味で煮て保存食にしてしまうというのは基本だろうなと思う。

 ただ、この保存食が単に日持ちのする食材という以上に美味しかったりするので、3週連続のお裾分けもうれしい悲鳴を上げつつ、毎日せっせと食べることになる。
 サンマ煮は煮返して食べているうちにボロボロと崩れつつ味がしみてきたりして実に味わい深いし、イチジク甘露煮もそれほど甘くなく仕上げてあり、発酵始まって多少酸味がするぐらいまではバクバクと食べられる。
 「飽きてきた~秋だけに」とかぼやきながら飽食するそのこと自体に贅沢を感じる。

 秋の味覚を飽くほど食らう快楽をいましばらく堪能できそうだ。

2016年10月16日日曜日

体脂肪率15%

 病気で寝倒していたころに増えた体重が、60キロを割り込み、トレーニングして絞り込んだ時の体重に近づいてきたけど、在りし日の遠征前のように体脂肪率が10%を切るような数値ではなく15%とかある。

 同じ60キロ弱でも、筋肉の量が落ちているので脂肪がまだついているということか。
 筋肉が2~3キロ脂肪に置き換わっているイメージだろうか。

 体脂肪率についてはあんまり下がると、寒さに弱くなるように感じたりするので、脂肪を減らしたいというよりは筋肉量を増やしたいところだ。徐々に筋トレとかも付加をかけているので、筋力付けてパワーアップしたい。

 体脂肪率、15%~20%が年齢からいって普通ということらしいので、脂肪自体はもう少し増えてもいいっちゃいいのだが、腹回りに肉がつくと服を買い換えなければならなくなるので煩わしい。
 何でもネットで買える時代になったが、さすがにスーツとかは店に買いに行って裾直しとかしてもらう必要があるので面倒くさい。 


 例年秋になると、食欲の秋でモリモリと飯を食っていたのだが、今年はというかだんだんと食欲も落ちてきているようで、若い頃は「三度の飯より米が好き」、「おかわり自由は基本的人権」とかいいつつ、チャーハンおかずに白飯を食ったり、昼に弁当2個買って食ったりしていたのだが、最近は店で食事するときにもご飯大盛りをたのまなくなり、学生時代朝晩で3合飯を食っていたのが、2合炊いて3食もつという小食になった。

 飯を沢山食うのはそれ自体に喜びの伴う行為であり、食が細くなったのは寂しい限りであるけど、それでも秋にはサンマやらキノコやら栗やらの秋の味覚があり、味覚の秋を楽しんでいる。

 サンマは同居人のお母さんが、骨まで軟らかく煮たのをジップロックに詰めて送ってくれたのが冷凍庫にストックされていて、ここしばらく連続しておかずにしているがなかなか飽きない美味しさがある。

 キノコは某そばチェーン店のキノコ天丼そばセットがマイブームで、カラッと揚がって甘辛い天丼ダレをかけられたマイタケとシメジを堪能している。マイタケ大好きでマイタケの人口栽培を開発した人には感謝感激で舞を舞う次第である。

 栗は同居人が買ってきて煮たのを半分に切ってスプーンでほじくって食べているが、今時甘くて美味しいむき栗が売っているけど、そこはかとなく甘い程度の素朴な味わいが逆に好ましく感じる。

 天高く馬肥える秋とはいかずに痩せてきているけど、それでも秋は秋だなと思う。

2016年10月9日日曜日

道具と玩具のはざま


 フラットラップが最近好釣で、その生い立ちとかシンプルな道具としての有り様とかを見るにつけ「ラパラは漁具」という思いを新たにしている。

 じゃあジャパニーズハイテクルアーは何かと聞かれれば「玩具」と良くも悪くも思ってしまう。

 玩具の楽しさを否定するつもりもないし、ラパラにももちろん玩具的な面白さも十分あると思っている。

 どんなに機能面に優れた道具でも、使う行為に楽しさが伴わないわけがなく、玩具的な要素はどんな道具にもあるのだと思う。

 だとしても、今時のジャパニーズハイテク釣り具の道具本来の用途を逸脱するぐらいの過剰な機能なりを思うとどうにも玩具に寄せすぎなような気がする。

 見た目にいかにも釣れそうなリアルな造形だとか玄妙な重心移動システムとか、フラットラップには全くもって無い要素だが、だからといってフラットラップがそういう要素を備えたルアーに負けるかというと、そんなことはなくて、かなり多くの場面でそれらをしのぐ働きを見せてくれる。

 リールにしても今使っている中華なPENN430ssgなど、極シンプルなウォームギア採用の機構で壊れるところが少なく、ラインローラーと逆転防止のベアリングへの注油だけで8年使っているが、何ら不都合無く使えている。よくできた道具だと思う。

 有り体にいって、魚を釣る道具としてはルアーのリアルな造形も、リールにたくさん入っているベアリングもあまり必須でないように感じている。

 それらが釣っているのは魚というよりも釣り人ではないかと感じているし、多くの人が指摘するところだがいかがなものだろうか?

 「釣り」を遊びで行う限り、道具は単なる道具ではなく道具そのものに楽しみが付加されて「玩具」じみてくるのは避けられないとは思うが、個人的な好みとしてはシンプルな機能に徹した「道具」がもつ渋い魅力にメロメロにやられてしまうのである。

 とかいいながらも、タックルボックスがひっくり返したおもちゃ箱みたいになってるのも、それはそれで楽しいと思うのだが。

2016年10月2日日曜日

簡単に手に入ったモノはつまらない。苦労して手にしたモノだけが私をいたく満足させる。

 シーバス釣りが好きだ。今更だけど。

 テナガの時期には「テナガ至高!」とかハゼ釣りの時期には「ハゼ釣り燃えるッ」とかやってるわけで、今更なうえにナニゆうとるんやコイツな感じは否めないが、それでも私がシーバス釣りを好きな気持ちを否定するには至らない。

 シーバス釣りのナニが面白いかとつらつら考えると、釣れるときは釣れるけど、釣れないときは釣れない難しさ加減がちょうど良いんだと思っている。全く釣れないとしんどい修行のような釣りになってしまうが、そこそこ釣れる。でもハズすと何十年とやってきているのにスカ食ってしまう。そのあたりの加減がちょうど良い。

 シーバスはどこにでもいる。それこそ自転車で数十分の近所の川にも上がってくるし、港湾部や河口はもちろん、ちょっと沖に青物と一緒にいることもあれば、アユのいるような清流にもいる。スズキの生き方は多様性に富んでいる。
 でもいつもいるかというとそうでもなくて、爆釣したポイントがちょっと日が違えばまるで反応しないなんてこともある。
 だから、いつも釣れるか釣れないか不安な中でドキドキワクワクと釣り場に向かうし、釣れれば心底ホッとする。
 釣れれば心底ホッとするのは、シーバスが狙い通りポイントにいても、食わせるのは難しくないコトが多くても、かけるのと、かけてからあげるのが難しく、バラしも多いからというのもある。かけてからも首振るたびにひやひやして、やっとネットに収まってくれたときの安堵といったらもう、シーバスやる釣り人なら分かっていただけるだろう。

 シーバスの生き方は多様性に富んでいる。
 その日その場所そのその時々で付いてるポイントも食ってる餌も、当然ルアーへの反応も違ってくる。
 釣りの教科書やらを読むと、そういったパターンに対応して柔軟な戦略を練れ的なコトが書いてある。あるんだけど、それをやろうと思うと膨大な種類のルアーと竿とリールも必要で、かつ半端な腕では下手な鉄砲休むに似たりでどの戦略も中途半端に終わりかねない。

 20年以上シーバス狙ってきて、平均的なヘボ釣り師の域をでないでいる私は、その日のパターンに合わせて戦略を練るなんていうことはハナから放棄しているところがある。今日の釣りはこのパターンでハメてやるんだと決め打ちで、反応無ければ戦略変えずに場所変えてぐらいの勢いで行く。道具もシンプル。竿いっちょにタックルボックスもウエストポーチに入る小型のが1つである。

 20年以上シーバス狙ってきて、正直交通事故的な釣果ではないそこそこ釣果の出せる自分のものになった勝ちパターンの釣り方って、ありとあらゆる釣り方が存在する多様性のなか3つしか持ってない。「バチパターン」と「運河の橋と灯りの下」と「カヤックでの杭打ち」である。
 逆に言うと、長い時間かけて経験積んでモノにした技術以外は、あんまり釣り場で確実性が無い。釣具屋の宣伝に乗せられて付け焼き刃の戦術で臨んだところでそんな簡単にシーバス釣れないというのは、いやというぐらい理解している。
 それでも新しい技術をモノにしたくて、いろんな釣り方にも挑戦する。それもまた楽しいというのも正直あるが、すぐに釣果に結びつくモノだとは思っておらず長期的に育てていくべき性格のモノだと思っている。

 私のデキないシーバス釣りの技術がたくさん存在して、私の釣れないシーバスが沢山泳いでいる。これを釣りたいと思わずして何の釣り人か。これが楽しいと思わずして何の釣り人か。

 これからもシーバス釣りに関しては楽しく苦労させられるだろう。

2016年9月25日日曜日

45

 不惑と呼ばれる40歳を迎えたのも最近のように感じるが、時のたつのは早いものである。21日で45歳になった。

 オッサンとして着々とキャリアを重ねている気がする。

 体の節々が痛く、目がしょぼしょぼと特に近くが見にくくなり、トイレは近く、朝は早いが疲れはとれにくい。

 書いてて泣けてくるようだが、歳をとって良くなったのは、そういう負の要素を重ねたとしても、それほど気にしていない図々しさを獲得したことだろうか。
 「諦念」とか「悟り」とまでは高尚でなくても、「適当」とか「いい加減」とかには近づきつつあるように思う。

 若い頃に心を煩わせた、強い怒りの感情や欲望もそろそろ枯れてきて、穏やかな心境に近づいてきたような気がする。気のせいか?

 それでも時にむかついたり、気分が落ち込んだりもするけれど、悪い日もあれば良い日もあると自分に言い聞かせるぐらいのことはできるようになってきた。と思う。

 これから気力も体力も向上は期待できず、現状維持が良いところだろうと思うが、楽しいことを探しながら、ボチボチとやっていけたら良いなと思うところ。

 まあ、週末釣りに行けるなら、それ以上望むべくもないのかなと思う秋の日であった。

2016年9月18日日曜日

ネットでTV

 地上波のテレビはあまりみない方だと思う。
 みるのは録画して視聴している深夜のアニメとNHKの「ダーウィンが来た!」とかの動物番組ぐらいで、後はボクシングとかの格闘技の中継。金曜のボクシングは面白かった!

 格闘技は一時期ブームで大晦日には「PRIDE」と「K-1」両団体が興行をうってTV放送していたくらいだったが、K-1は身売り、PRIDEは解散という栄枯盛衰を味わった。しかしながら、昨年末久しぶりに大晦日に格闘技番組がやってたのからも分かるようにチョット日本での格闘技人気が戻ってきているようだ。

 世界的にはアメリカのUFCという団体が人気で、MMA(ミクスドマーシャルアーツ、いわゆる総合格闘技)のメジャーリーグみたいな大舞台になっている。
 日本でも総合格闘技の団体は「修斗」とか「パンクラス」とかいくつか生き残っていて、最近キックボクシング系の「K-1」も「新生K-1」ということで定期的に興行をうっている。

 地上波ではやっていないので、どっかで見ることができないかと探してはいたんだけど、WOWWOWとかケーブルテレビとかは契約がめんどくせえので手が出ないでいた。
 それが、ネットで無料放送の「abemaTV」というのができて、そこの格闘チャンネルに、日本の格闘技団体の興行はもちろん、UFCもちょこちょこ、UFCの次ぐらいに大きなアメリカの総合格闘技の団体の「ベラトール」については、これから全シリーズ放送予定ということで、なかなかに充実している。チャンネルは他にもアニメチャンネルとかもあって充実していて、しばらく無料で楽しんでいたのだが、これを録画する方法が画面を無料ソフトで連続画像保存するとかなんとか面倒そうなのでどうにかならんのかと思っていたら、月千円弱で過去放送分を好きなように見られるというサービスがあるのに気がついた。たぶん無料放送は餌でこちらに誘導しようとしているのだろう。

 まんまと餌に食いついてしまった。手続きもネットでコチョコチョッとすぐ済んだ。

 一気に沢山見たらチョット飽きてしまったが、まあ面白い。もともと総合格闘技とかは流血している相手のうえに馬乗りになって殴りまくるとか、絵的に地上波でやるには陰惨な部分があったので、好き者が金を払ってひっそりとみるこういった形がふさわしいのかもしれない。

 今日、音楽にしろ本にしろ芸術はネットでも手に入るので、ネットの前のオタクが現代の芸術のパトロンだと感じていたが、戦士の戦いをコロッセオで観戦していた王侯貴族のような楽しみもネットの前のオタクには提供されているのである。
 労働力として搾取され、種々監視されている奴隷のような面もある我々だが、王侯貴族の楽しみを享受しているのもまた真実のように思う。

 戦士たちよ我を満足させてくれたまえ。

2016年9月11日日曜日

半ダースも買ったいいわけ


 ルアーをまとめ買いするときに、6個買っちゃうのは今のように何でもネット通販できる以前の、店頭に無かったら問屋から取り寄せてもらうときの癖のようなモノだろうか。
 2個とか3個とか売って欲しくても、店としては問屋に発注する単位が箱単位なので売れ筋商品じゃ無いマイナールアーは「箱単位でしか取り寄せできないんです」と言われたモノであった。

 写真の箱の並びを見てもらったら一目瞭然だと思うが、3個2列で6個というのは梱包しやすく、ルアーの「箱買い」では6個というのが一般的であった。

 6個というのは1ダース12個の半分の「半ダース」で、12進法っていうのも実際の商品取引なんかでは案外便利なのかなという気がしたりして、両手の指の数が基準になっている10進法が主流になっている現代でも、12進法とか、その系列の時間の60進法、角度の360進法っていうのが残っているのは何でだろうなとふと考えてみた。

 時計の文字盤の数字を見ながら想像すれば分かるが、これが12進法じゃなくて10進法だと、4分の1のところが12進法なら3の倍数だけど、10進法だと2.5と整数でなくて収まりが悪い。だけど、それなら16進法にしちゃえば更に8分の1も整数できりが良い。12進法で8分の1は2.5だけど16進法では2である。

 どうにも使いやすさだけが12進法とかが使われてきた理由じゃなさそうだなという感じがしたので、ググったりウィキったりしてみた。
 その結果やっぱり、12が約数の多い割り切れて便利な数字だからというのは理由の一つにあるようで、10進法の10がの約数が2と5の2つしかないのに、12は2、3、4、6で割り切れる。
 16進法の16も2、4、8、の3つで割り切れるけど、12の4つには負けて12の方が使いやすそうな印象ではある。

 そしてたぶん、12進法、60進法、360進法が使われてきた理由のもう一つはこれだろうなというのが、天体の動きに由来するというもの。
 1年に月の満ち欠けがおよそ12周期、1年が大ざっぱに360日で1日に1度ぐらいズレるあたりが基準になって、これらの12進法系列の数え方は良いあんばいに使いやすかったこともあって今でも残っているのかなというのが、私の理解。

 ルアーを1度に6個も買ってしまうのにもそれなりに数に関する必然性があったのである、ということにしておこう。

 そろそろ秋っぽくなってきて、ハゼシーズンもあと1回行くかどうかぐらいでシーバスをそろそろという感じになってきた。

2016年9月3日土曜日

都会のコイ

 都会のコイが好きになれない。
 魚に貴賤はないと思うのだが、正直どうにも駄目だ。
 宿舎の前の三面護岸の川にも沢山泳いでいるのだが、見ていてあまりに野生を失いすぎているように感じる。堕落してやがる。

 まずは、天敵への警戒心が薄い。
 近所の三面護岸の川は水深が50センチあるかないかぐらいで、浅いと20センチぐらいしかないのに、そこをコイたちは背びれを出して泳いでいる。カワウソはもう日本にいないにしてもミンクのような魚食いの獣やミサゴのような猛禽に狙われたら、たやすく捕らわれてしまうような浅くて逃げ込む深場も障害物もない水域を平気で泳いでいる。
 ミサゴは多摩川あたりにはいるそうなので、そのうち簡単に餌が手に入る狩り場としてこちらにも出張してくるかもしれない。そうなったら狩り放題でミサゴウハウハである。都会のコイは野生生物としての臆病さと慎重さを欠いていると思う。

 そして、人間がくれる餌を喜んで食べる。
 「釣りキチ三平」で「鯉釣りは1日1寸」といっていて、毎日撒き餌をして尺物を釣ろうと思えば10日も撒き餌して警戒心を解く必要があるということだったと思うが、都会のコイは、撒き餌する前から近所の人に餌もらって学習しているのか、橋の上からのぞき込んだりするとパクパク口を開けて寄ってきたりする。あまつさえ毛針で狙うときなどフライラインが水面をたたくと、餌が投げ込まれた音と勘違いしてかワラワラと寄ってくる。釣る前に水面をたたいて魚を寄せるなんてのは、私の知る限りアマゾンのピラニア釣りと欧州のヨーロッパオオナマズ釣りと、瀬戸内海の鯛釣りの漁法と・・・意外とある。意外とあるけど鯉釣りは違うんである。断じてそうじゃなくて鯉釣りは静謐の釣りのはずである。そして玄人好みのする難しい釣りだったはずである。あんまり簡単に人の投げた餌を食うなよと。たとえそれにハリがついていようがいまいがである。
 まあ食う方も食う方だが、餌を与える方も与える方である。クマはじめ野生生物に餌を与えるのはよろしくないというのが、今時の常識というモノではないだろうか。

 例外的に慣習的に野生生物に餌やりが行われているのは鳥相手ぐらいというのが私の感覚なのだが、どんなもんだろう。最近は「餌やり禁止」的な方向なのか?
 鳥の場合、もともと田んぼで落ち穂を拾っていた鳥に越冬用の餌を与えている公園だとか、個人の庭で飛んでくる野鳥に餌台を設けて餌を与えるというのがあると思うけど、鳥の生活は元々鳥自体が空を飛んで人間の生活圏に入ってこれる生き物なので、人間の活動と切り離せない縁の深い性質があるように思っている。餌台を庭に設けるのと庭に実のなる木を植えるのと、あまり変わりがないように感じるし、それは自然な気がする。

 それに引き替え、自然の川の魚に庭の池の魚にするように餌を与えるのは、とてもいびつに感じる。川を泳ぐ魚は自分の力で生きるべきだと強く感じる。
 とはいえ、日本の川では、アユとヤマメを中心に、自力で生き延びるよりも多く釣られてしまうので、人間の手で「増殖」しているという現実もある。自然の河川の釣り堀化のようなことが現実としてある。そんな中で餌をやることだけを非難することは意味がないのかもしれない。
 先日も、祭りの余興で川に金魚を放流するというのが生態系への影響から問題であるとされて魚類学者が非難のコメントを出していたが、既に30年来続けてきた行事らしくもあり、また河川の状況が前述のように「釣堀化」している中でいまさら感が強かった。

 にもかかわらず、今ここにこうして、都会のコイを問題視するようなことを書いているのは、こと都会の川に限っては「釣堀化」と逆の自然が戻ってくるという状況にあり、その状況下で、いい加減川がコイだらけという現実がおかしいと感じているからである。
 一度入れてしまうとコイは数十年生きる長寿の魚なので、なかなかコイ中心の状況を覆せない。でもそろそろコイはやめて、自然に増えるための産卵場所の造成などを中心に、海から上がってくるマルタやアユ、河川で増えるオイカワやフナを中心にした都会の川を目指すんです!という意識の芽生えやそのための実践が重要になってきていると思うので書いたのである。

 そういう中で自然に増えた分のコイについては文句をいうつもりは全くない。それが、今の大陸産由来のコイの子孫であっても、自らの力で増殖し、生態的地位を得たならば、小うるさい学者のように、もともといた魚と遺伝的な差異があるとか何とかいうつもりもない。
 一度壊れた自然が戻ってきて、それにふさわしい生物群集が自然の競争の中で形づくられたならば、元々がどうとか遺伝的にどうとか、それ以上を求める必要などあるのか、いつも小うるさい学者の説を目にするたびに強い違和感を覚える。
 きっと、そういう自然な競争の中で育ったなら、都会のコイも相応に野性的に育って、釣るのも困難を伴い、それ故に楽しくなるはずである。

 そうなるまでは、都会のコイに簡単に餌に食いつくと痛い目に会うということを教育するために、たまに釣っていじめてやろうと思うのであった。

2016年8月27日土曜日

台風礼賛

 今年は台風が少ないと思っていたら、ここにきて帳尻をあわせるかのように台風発生しまくっていて、月曜には9号が関東直撃して大雨、10号は西に移動しつつ日本の南で停滞していたと思っていたらUターンして週明け上陸かもという、西から昇ったお日様が東に沈むような「何がしたいんじゃお前!」な訳の分からない動きをしていたりする。

 台風に限らず、低気圧が接近すると頭が重くなったり痛くなったり、膝の古傷が痛んだりと体調が悪くなる気がしていたが、新田次郎の「珊瑚」を読んだときに、全く同じような体質の登場人物がいて、私だけではなくそういう体質の人間がいるのだというのを知った。調べてみると割と普遍的にある症状のようで、「気象病」ともいうようだ。

 「珊瑚」では、荒天を体調で察知するというのが、漁師としての危機回避能力として役立っていたが、今の時代、衛星情報からスパコンのシミュレーションからつかった天気予報が簡単に手に入るので、すでにあまり役に立たない能力であるというか、頭痛いだけで困りものの体質である。

 というわけで、台風が来ると体調不良なのだが、台風自体はそれほど嫌いではない。
 子供っぽい感覚かもしれないけど、台風がやってきて、次第に雨風強くなってくる不穏な感じとか、妙にわくわくするモノがある。

 もちろん被害がでたりするとしゃれにならないけど、台風も来ないと水不足だったりなんだりもあって、災いも幸いも運んでくるというのがやっぱり自然そのものという感じがする。

 釣り師としては、台風直撃で休みの予定がぶっ飛んだり船が出なかったりというのはかんべん願いたいが、低気圧の来る前って一般的に魚の活性は高いし、雨も魚の行動に影響を与えて釣果につながったりするので、恐れつつも期待している心理がある。
 実際には増水濁流で釣りにならない場合も多いのだが、妄想ではいつも爆釣の気がしている相変わらず馬鹿な私であった。

2016年8月20日土曜日

天然素材でも不安です!

 「天然素材で安心です!」というような宣伝文句を聞くたびに、うさんくさく感じるのは杉花粉のアレルギーやらで天然素材にさんざんな目にあわされているからだろうか。

 確かに自然界にないので分解されにくいような人工合成物を人間様は作っちまって、そのために自然環境が汚染されてしまったりなんてのを聞くと、天然の方が安心な気がするのは分かるが、人間が作り出した最強レベルの毒であるダイオキシンでも天然の毒であるボツリヌス毒素なんてのに遠くおよばなかったりするのをみると、天然もおっそろしいなと、ゆめゆめ油断はできぬモノと思うのである。
 天然素材だから安全安心だというのは幻想に過ぎないだろう。

 天然の毒物で過去に私がくらった中で最悪だったのは、チャドクガ幼虫の毒で、高校の時に中庭の椿に毛虫が湧いているのに気づかず、窓から出入りするというお行儀の悪いことをしているときに椿に背中を擦ってしまい、しばらくして猛烈なかゆみに襲われた。
 密集している毛虫たちにシャツごしに接触したようで、背中半分ぐらいの広い範囲が気が狂いそうにかゆく悶絶した。皮膚科に行くと首あたりまで赤くただれていたので「毛虫ですね」と一目で先生分かったようでステロイド軟膏を出してもらった。

 毒生物といえばハチにも何度か刺されて痛かったけど、釣ったアイゴとハオコゼにも刺された経験があり、いずれもハチ以上にズキズキに痛かったのを憶えている。
 魚で毒針というと、他にもゴンズイやミノカサゴ、死亡例もあるアカエイ、オニダルマオコゼなんてのも海に行けばいるのでくわばらくわばらである。

 海に行くと魚以外にもおっそろしい毒生物はいて、身近なところではちょうどお盆ごろに海水浴場でもみられるアンドンクラゲなんてのも、水中で見つけて「あっち行け!」と手で追い払おうとしたら逆に水流で引き寄せてしまい水中でアワ食いつつ刺されたりしてヒリヒリと痛かった記憶がある。近い仲間のクラゲには沖縄のハブクラゲやら豪州のオーストラリアウンバチクラゲ(キロネックス)なんていうヒリヒリ程度で済まない人死が出るクラスのもいてこれまたくわばらくわばらという感じである。

 クラゲではカツオノエボシやアカクラゲといった触手の長いクラゲも、釣りしていて要注意である。ルアーのフックとかに触手だけからんで揚がってくることがあったりするけど、見た目ビニール片のようなので不用意に触ると、ビリビリと痺れるような痛みがくる。カツオノエボシをして電気クラゲとは言い得て妙だなと感心するぐらいのビリビリ具合である。

 毒生物って、恐ろしいのとともに、それ故にとても魅力的でもあるとも感じていて、警戒色の青いリングが特徴的なヒョウモンダコとか、アンボイナやタガヤサンミナシなんかのイモガイ系とかも、美しいのもあってとても惹かれるものがある。海で見たことはまだないが怖いもの見たさでいつかお目にかかりたいモノだ。

2016年8月14日日曜日

蝉の一生

ジュィィィィーーーーーーーーーっという鳴き声がたくさん重なって音の圧力を感じるぐらいにアブラゼミが鳴いている。
 今年は特に多い当たり年ではないだろうか?
 学生時代に大学の構内で異様にアブラゼミがわいた年があったことを憶えているが、そのときはセミが手で取れるぐらいの木の低い位置にもたくさんいた。今年の我が家周辺もそこまで多くはないがそれでもかなり多いような気がしている。今でも低い位置に止まっていると思わず捕まえようとしてしまうのだが、今年はその機会が多い。でも若いときと違ってトロくさくなってしまったのかいつも逃げられている。

 アブラゼミって、異様にたくさん羽化する年とそうでもない年があって、アメリカの有名な素数蝉13年ゼミ、17年ゼミと同じように、7年に1回ぐらい当たり年があって、捕食圧をうまく逃れているのじゃないかと思っていた。7も素数であるし漠然とそう思っていた。

 昭和の時代を少年として過ごした我々世代は、アブラゼミの寿命は7年、卵で1年、地中で育つ幼虫が6年目に羽化すると図鑑とかで習ってきたのだが、どうも最近の説ではアブラゼミの寿命は5~8年ぐらいで多少ずれることもあるような書きぶりである。
 となると当たり年は7年ごとというわけではなくて、環境がよかったとかの要因で沢山羽化した年なのかもしれない。

 ネットで調べてみると、中学生が調べたアブラゼミ3年周期説とか、別の報告者のやっぱり7年周期説とかもみつかって面白いが、これだけ身近にたくさんいるアブラゼミの寿命とかがはっきりわからないとか、なかなかに自然は謎にあふれているなあと思うところである。
 セミの一生ぐらい誰か、百でも千でも飼育試験して明らかにしてくれないものだろうかとも正直思う。

 と、儚い命の代名詞でもあるセミの一生について書いていたら、グリーンランドシャークことニシオンデンザメの寿命が400年ぐらいあるとう調査結果がニュースで駆け巡り大いに驚いた。400百年てどうよ!やっぱり自然は謎にあふれている。ゆっくり泳いで急がずながーく生きて大きくなるようだ。日本の近海深くには近い仲間のオンデンザメが棲んでいる。最大7mともいわれる海の怪物である。いつの日か釣ってみたい!

2016年8月10日水曜日

輝くものすべてが金ではない

 スポーツは最近結果だけネットニュースで見ればいいやと思う日々で、オリンピックもその日のダイジェスト番組程度でいいやと思うのだが、格闘技が好きなので柔道だけは注目選手の出る階級ぐらいは朝早くにやってるのを起きて決勝見ておこうかなと見たり見なかったりしている。
 日本発祥のお家芸のはずだが、なかなかに苦戦していて、朝の放送では準決勝ぐらいから始まるのだが、すでに目当ての選手負けてたりして切なくなったりもする。

 オリンピックが開幕する直前、柔道五輪三連覇の天才野村忠宏がレポーターで、五輪連覇し損なった努力家井上康生現監督に直撃インタビューしている番組を見たが、なかなかに味わい深かった。
 男子全階級で金メダルというのが目標だという井上監督に「ほんとにそれ信じてるの?」とか、ぶっちゃけた冷めたコメントをぶちかます天才野村に井上監督が「選手たちがそれを信じてがんばっているのに監督がまず信じてやらなくてどうしますか!」と返すあたりに、井上監督の優しくも熱血な人柄がみてとれる。
 逆にそれが絵空事だと割り切れる冷徹さが、勝負の世界で前人未踏の世界に足を踏み入れた天才野村の天才たるゆえんだろうか。
 なにしろ現役時代、週に3日だかしか練習しないとか、およそ日本人が大好きな努力と根性の正反対にあるようなお方である。
 井上監督が「野村先輩と違って、私なんかはさんざん練習してこれだけ練習したから負けるはずがないとか思うタイプ」とか言っていたが、普通そんなもんだろう。普通といっても井上監督のようにオリンピックで金とれるのは「普通の天才」というところだろうが、連覇するような異常な天才は我々にはよくわからん世界の住人のようである。
 とはいえ、男子ではロンドンでは金メダル0だったのが、まだ重い階級いくつか残る今日時点で既に大野選手が金メダル、普通の天才井上監督にしてよかったなと思うところである。大天才野村は天才過ぎて普通の天才を指導するのはチョット難しいような気がする。

 番組ではこれまた五輪連覇してる女子柔道の谷亮子元選手と天才野村の取った8個!!のメダルを並べるというシーンがあったけど、正直それまで私は三連覇の野村を差し置いて二連覇の谷に国民栄誉賞が与えられているのは不当だと感じていたが、谷元選手の金2銀2銅1の物量を目のあたりにして、これは日本人なら谷の方に国民栄誉賞を与えるしかなかったんだなとちょっと納得した。4年かける5回の20年にわたって五輪でメダルが取れるレベルにあって、かつ天才野村よりはわかりやすい努力家の彼女は日本国民の好みに合っているのだろう。

 野村、谷の両大天才に現役の柔道家で比ぶべき選手は、「野獣」松本薫選手ぐらいかなと思っていたが、残念ながら今回は銅メダルに終わっている。連覇って本当に偉業だな。
 松本選手前回金メダルを取ったロンドン五輪では、場外に逃れようとする相手選手の足を引っ張って場内に引きずり戻して仕留めようとするというショッキングなシーンが繰り返し流れていてすっかり有名になったが、その他にも「待て」がかかるまでは、うずくまっている相手の襟を絞めようとしているように見受けられたり、なかなかに「野獣」のニックネームに恥じない戦闘狂じみた戦いっぷりが小気味よかった。
 今回も、気迫あふれる試合への入り方とか、ちょっと天然入ったインタビューとか、らしい活躍ぶりだったようには思う。

 オリンピックに出るような選手は、はっきりいって皆程度の差はあれ天才といって良いのだろうが、輝ける才能が金メダルを必ずしも保証するものでもなく、金に値するのは各種目階級ごと4年に1人のみで、それ故に取った人間は手放しの賞賛に値するのだと思う。
 まあ、金じゃなくても、あるいはそもそも参加できなくったって、輝かないってわけでもないようには思うけど、人は金ピカの威光にひれ伏すようにできているということか。
 柔道もJUDOという世界的なスポーツになって久しく、もう日本のお家芸というわけでもなくなっているのかもしれない。金でなくてもがっかりせずに選手の健闘に喝采を送るべきなのかなとチョット反省している。

 あと、メダル授与の後で選手が何か謎の物体を記念品としてもらっているのが、なんなんだろうなあれ?歯ブラシ立てという噂は本当だろうか?とへんなところも気になるリオ五輪なのであった。

2016年8月6日土曜日

夏の読書

 暑が夏い!梅雨も明けて夏本番だが、カラッとくそ暑い。
 週の前半は、大気の状態が不安定でゲリラ豪雨が来たりして蒸し暑かった。先日は未明にものすごい雷を伴う豪雨で目が覚めたりした。最近の雨はよくあんなに降るなと思うぐらいにドシャメシャに降る。

 寝苦しい夜に、扇風機かけながら布団に寝転がって眠気が来るまで本を読むというのはなかなかに乙な楽しみだが、暑くて脳みそがトロけそうなのであんまり難しい内容のものは読みたくない。
 こういうときにはサクサク読める面白エッセイなんてのが良い勝負をしてくれる。眠くなったところで区切りをつけてそのまま寝てしまってもいいけんね。

 私の中で面白エッセイといえばオーケン先生とシーナ先生の両先生が双璧である。
 しかしながらオーケン先生は本業がバンドマンなのでそれほど冊数が多くなくて、すでに飽きるぐらい繰り返し読んでしまっているんだな。
 その点シーナ先生は頼もしいぐらいの多産な作家である。
 何しろ月刊やら書き下ろしやらも書きつつ週刊連載のエッセイを一時期2本抱えていたという生産性の高さを誇る。
 このエッセイが面白くて読みやすい。旅の多いシーナ先生の日常をダラダラと書いているだけのようでいて、なぜか面白くて飽きがこない。これってなにげにすごいコトですな。
 週刊エッセイの片方「新宿赤マント」シリーズが終了して、こちらは全部読んでいたが、もう一方の「ナマコのからえばり」シリーズの方はまだ連載中で途中までしか読んでいなかった。
 ここに来てシーナ先生、著書の電子書籍化が進んでいて、ナマコシリーズもキンドル版がドドンと出ていたのでガシガシと読みあさった。やっぱり面白いんだなあ。

 深く考えさせられるような本や、興奮して夢中になってしまうような本ももちろん良いものだが、あんまり深く考えずにサクサク読んで面白いというのも実にありがたいものなんですねえ。

 シーナ先生、エッセイの中で今まで書いてきた書籍が200冊以上と書いていて、半分ぐらい読んだかなという感じだが、残りまだ100冊ぐらいあるかと思うと頼もしい限りである。エッセイの他にもシーナワールドと呼ばれるSF作品とかも好きだし、もちろん紀行文も大好きなのだ。

 これだけ冊数があると、電子化されたタイトルとか見てもどれが既読だかおぼつかない。まあ、でも2回読んでも悪いわけじゃないので読んだことなさそうなのは片っ端から読んでいこうとキッパリと思ったところなのだ。

2016年7月30日土曜日

家にいながらゲットだぜ -君の名は-夏の日の追憶篇

 世の中では「ポケモンGO」が人気のようで、ながらスマホの自転車とかフラフラしていて何だかなあという感じだが、あちこちと歩き回って獲物をゲットするという、狩猟採集の楽しさがあるんだろうなと、全く参加していない私でも想像はできる。楽しそうでようござんす。

 私の場合、釣りで200種以上ゲットとかデジタルじゃなくて現物で狩猟採集の楽しさを味わっているので、今更ポケモンGOに参戦する気も無くポケモンからノケモンになっている状態だが、家でネットしていただけで、釣ったことある魚種に1種類追加があった。イシガキハタゲットだぜ。これで釣ったことあるのは207種である。

 夏休みシーズンで、行く予定があるわけではないけど沖縄のリーフで釣りとかいいなあと、沖縄の釣り人のブログとか読んで楽しんでいたところ、カンモンハタとイシガキハタを見分けている人がいて、そういえばこれまであの手のハタは「イシミーバイ」ということで、全部カンモンハタのつもりで釣っていたけど間違いなかったのだろうかと気になって、過去の写真を見たところ、イシガキハタも釣ってました。お粗末。

 見分け方は、ムナビレの斑点が黒くて体側の黒斑でつながっているものがあるのがカンモンハタで、左の個体が典型。ムナビレに黒点があり、体側にいくつかつながった黒斑が認められる。








 でもって、ムナビレの斑点が赤くて、背中に黒色斑が5つ並ぶのがイシガキハタ。
 右の個体でも背中の黒色斑がセビレの下から尾丙部上部にかけて5個認められる。
 ムナビレの斑点は赤褐色。


 けっこう釣ったことのあるなじみの魚をちゃんと同定しきれていなかったのはお恥ずかしい限りだが、写真撮っておくと後からでも確認できる。

 ハタ類は同定難問ぞろいで、イシミーバイとまとめて呼んでるなかなには、他にもヒトミハタとかスミツキハタもいるはずだけど、写真確認したところ私はまだ釣っていないようだ。


 一つ賢くなって、たぶん街でレアポケモンゲットした人たちに劣らぬぐらい喜んでいる。

 今後も釣ったことない魚をゲットする喜びを求めて、水辺をウロウロとしていきたい。

2016年7月23日土曜日

水難防止

 西日本は梅雨明け宣言がでて、関東も梅雨明けまだっぽいが梅雨の晴れ間は猛暑になっている。

 暑い夏がくると痛ましい水難事故のニュースが絶えない。
 水上オートバイが海水浴客を跳ねて死なせたとか聞くと、やっぱり自分の中で水上オートバイ乗りに対する偏見に近い悪感情が湧くのをとどめることができない。
 どれだけ頭が足りなければ、あんな凶器になり得る機械で人の近くを高速航行しようと考えるのだろうか?理解に苦しむ。
 水上オートバイ関係に限らず、酒に酔って、子供を助けようとして、水難事故自体は水辺で遊ぶ限り可能性としては存在して、全くなくすというのは無理なのかもしれないが、ニュースを聞いていてもう少し注意深かったり、ちゃんとした知識があったりすれば避けられたものもあったのではないかと思わずにいられない。

 昔なら地域の共同体の中で、いっちゃいけないような危ない水辺の知識が共有されていたり、親から子へ孫へと水で遊ぶ時の心得が伝授されていたりしていたのが、都会的な個人主義と核家族化の時代になってそういうものが断絶してしまっているように感じる。

 たとえば、私が父親に教えられたことで印象的で憶えている教えは「溺れている人間を泳いで助けに行くな」ということである。なにを非人道的なことを言っているのかと思うかもしれないが、溺れるものは藁をもつかむで、溺れそうな人間は必死でしがみついてくるので、大人と子供の体格差があっても、足の着かない水深で直接抱き止めて救助しようとすると失敗して二重遭難になる可能性が高いからである。正しくはつかまることのできる「浮き」や「ロープ」を投げてつかまらせるのが最善手(クーラーボックスや防水バック、衣類をつないだものなどが使える。みんなで手をつないで引っ張るのもあり)。沈んでおとなしくなったのを引っ張りあげて人工呼吸で蘇生させるというのも次善の策。沈んですぐに引き上げて蘇生しない確率はおそらく、泳いで助けに行って二重遭難にはまる確率より低いはず。
 というようなことを我が父親の世代は身に付いた知識として知っていて子供に教えることができた。

 ひるがえって今時の親をみると、すべてとはいわないがちょっとびっくりするような事例を散見する。
 とある河口で、ヒラメをねらっていたとある夏の日。おもいっきり「遊泳禁止」の看板がかかっているにもかかわらず、河口で子供を泳がせる家族がちらほらといた。もちろん子供が遊んでいる波打ち際は危険にはみえないが、ちょっと沖に出てしまうと、もろに川の流れで沖にもっていかれる。注意してやろうかとも思ったが、わりといわゆるDQNっぽい親たちだったので面倒なことになってもいやなので放置してしまった。きちんとなぜ危険なのか説明しておくべきだったと反省している。
 逆にいつものテナガポイントの浅い川岸で子供にテナガ釣りをさせているときに、しきりに「危なくないか?」と気にしているお父さんがいたりして、底の見えてるよな浅場にはまったところでどうもならん、ということがわからない「都会の親」なんだなとちょっと気になった。こういう親は親でちょっと間違うとすべての水辺を「立ち入り禁止」とかにして子供を水辺から離そうとしたりする気配があって危うく感じる。

 我々釣り人も水辺で遊ぶ限り水難事故とは隣り合わせというか、油断すると死にかねない。
 最近は船に乗るときの救命胴衣着用はすっかり定着していてよいことだと思う。私も洋上では救命胴衣かひもを引っ張ると浮き輪が出てくる救命具を身につけている。もう、ないと不安を感じるぐらいで、海外遠征にも持っていって着用している。写真でみると腰につけたポーチのようなものがそれである。

 そういう安全対策の進んできた釣りの世界で、まだまだ危険だなと思うのがウェーディング関係である。

 割とありがちなのが、シーバスねらいの不必要なまでの深みへの立ち込み。ライフジャケットはつけているので、コケても溺死はないのかもしれないが、寒い時期に濡れネズミになれば凍え死にかねんと思うのだが、漁船が行き交う航路沿いでも腰ぐらいまで深く立ち込んでいたりする。
 膝下くらいで釣ってた当方でも釣れてるんだけど、深く立ち込むともっと釣れるのだろうか?そんなに変わらないような気がするがよくわからん。

 もうひとつ、ウェーディングでは川でも水深のある本流などでは救命胴衣を着用するべきということが、徹底されていないように思う。
 ルアーフライやるような釣り人は、コケても手が底につくような浅い渓流をやるようなウェーダー履いてフィッシングベストというおきまりのスタイルで本流もやっているように見受けられる。
 釣り雑誌の実験記事で読んだが、ウェーダー履いてコケるとウェーダーに入った空気で足が浮いてしまい、スケキヨ状態とまでは行かなくとも、顔が水面に出なくなってしまうそうな。
 その状態で水底に手をついて起きあがれない水深だと、そのまま溺れてしまいかねない。
 それを防ぐためには、水深のあるエリアで釣る場合は救命胴衣の着用が必要と実験記事では締めくくられていた。救命胴衣があれば上半身が浮いて顔を水面に出せる。
 その記事を読んでからは、ちょっと不格好でほかの釣り人がやっていなくても、本流で釣るときは救命胴衣をつけて釣っていた。東北時代の話である。 
 もう20年も前のことになるのかと思うと愕然とするが、いまでも本流のルアーフライマンは危なっかしい格好で釣っている人が多いように思う。

 死んだらつまんないので、是非救命胴衣を着用してほしいと書いておく。
 こういうのは雑誌やテレビで活躍するような釣り人が率先してやってくれると普及すると思うんだけどね。

 楽しい水辺の遊びで事故なんて起こすとつまんないので、安全第一で楽しみましょう。

2016年7月17日日曜日

わさび

 ケン一からの釣果報告のメールの中にわさびを刺身の上に乗っけて食うように強要してくるようなグルメについて「漁師でお上品に刺身の一切れ一切れにワサビ載せて食うヤツは断言するけど、いない。100%全員がワサビは醤油に溶いて刺身ドバっと漬けて食う。」と激しく非難しているところがあって、「やっぱりそうだよね」と百の援軍を得た気がした。
 漁師って、その日食う分の魚はわざと活き締めとかせずにタンパク質分解早めに調整して、とかやるぐらいに魚の味の分かってる人種である。

 不肖わたくしめも、父方が漁師町の出身で、うまい刺身はしこたま食ってきたという自負があるが、わさびを使うときは、わさびといいつつ実はセイヨウワサビともいわれる「ホースラディッシュ」が主原料として使われている「練りわさび」を醤油に溶いて刺身を食ってきた。

 本物のわさびを、カスザメの皮製の「おろし」ですりおろして刺身のツマにしたものなんてのは、大人になってちょっと良い値段の飲み屋に行ったときに初めて経験したぐらいで、はっきり言って食べつけていない。一応カッコつけて刺身に乗っけて食ったりしていたが「本わさびってこんな味なんだ」と思うぐらいで、それはそれでおいしいとも感じるが、正直物足りない味だと思っちゃったと恥かしながら書いておこう。

 何度も書いてきたが、味覚なんてのは習慣と偏見の産物であって、粉っぽい練りわさびを醤油の色がドロッと変わるまで溶かして刺身を食ってきた男には、そういう味こそが美味であり、刺身のわさびといえばそういうものなのである。
 本わさびなんて食べつけてないものは、たまのごちそうとしてありがたくいただくべきものかもしれないが、うまい刺身があったら、それに練りさびを醤油に溶いて添えてあったなら「どんぶり飯を盛ってこい!」という感じになるのである。

 にもかかわらず、最近スーパーでチューブの練りわさびを買うと「本わさび」とか表示されていて、原材料にホースラディッシュだけでなく、生意気にも「わさび」も使われていて、わりと粗挽きの粒子状になっている。
 このタイプのわさびが、私がもっとも嫌いなタイプであるにも関わらずそんなんしかチューブタイプは売っていない。
 すりたてでも何でもないので、生わさびの風味なんてぜんぜん感じない上に、醤油への溶けが悪い。何であんなモンが主流になってるのか理解に苦しむ。

 昔のホースラディシュの練りわさびがないものかと探すと、SBの缶入り「粉わさび」が売っている。水で練って使うタイプだが醤油に粉のまま溶かして大丈夫。なのだが、量が多すぎて最後まで使いきる前に辛みが飛んでしまう。

 そのほかには、スーパーで刺身を柵で買うと、ちっちゃなパックでついてくる「わさび」がうれしいことに安っぽいぐらいに粉っぽい昔ながらの練りわさびなのである。
 最近はもっぱら、刺身食うときは練りわさび付きのをねらって食っている。

 というぐらいに、我々ぐらいの世代なら、わさびは粉っぽいホースラディシュ原料のを醤油に溶いて使ってきたはずで、それが「お袋の味」的な味覚の記憶の正直なところであるはずだ。
 老い先短くなってきた我が人生、わさびぐらい好きに食ってもええやろと思う。
 今後も己に正直に、わさびは練りわさびを醤油におもいっきり溶いて刺身を食ってやろうと思うのである。

2016年7月9日土曜日

多数決以外の方法

 多数決の嫌いな少数派には苦々しい選挙がやってくる。

 以前もどこかで書いたが、私は多数決が嫌いだ。合唱コンクールで歌う曲を決める学級会から、原発反対まで、多数決でさんざん不愉快な思いをしてきた気がする。

 選挙という制度も、今のような社会が複雑で仕組みが大きくなってしまえば他にやりようはないのだろうとも思うが、選挙の否定が民主主義の否定のように声高な多数派が主張しているのを見たりすると、少数派としてはムカつくモノがある。

 民俗学者の書いた本を読んでると、昔の日本には、問題について集落の中で意見の一致を見るまで何回でも話し合う。という完全合議制とでもいうような気の長いやりかたをしていた地域があったそうな。
 合意にどうしても達しない場合、村長なりが判断を下すのかと思っていたら、むしろ合意に達しないと話自体をうやむやにしてしまってなかったことにするのだそうである。

 集落内での意思疎通が充分にはかられていて、話せば分かる古き良き時代の話なのかもしれないが、そういう民主主義もあるということである。

 くっだらねえ、公共事業で原発動かしたり水辺をコンクリで固めたりとかなんて止まってうやむやになってしまえと思うぐらいで、選挙とか議会での多数決とかやめて完全合議制でもかえって清々するンじゃなかろうかと思ったりする。
 まあ、完全合議制を今の社会でといったら、まず代表者の選択から選挙じゃ無くなるので頓挫して代表者が決まらない。ってぐらいになにも決まらないとは思う。

 もう一つ、多数決の不条理を解決する方法として、ぜんぜん民主主義じゃないけど、首長なり専門家なりに判断を任せてしまうというのがあって、大統領とか都道府県知事とか裁量の大きい首長を置く制度はある程度そうなっているように思う。
 だからこそ都知事にはアホを選ばないようにしないと大変な目にあう。

 イギリスのEU離脱の国民投票はかなり混乱を招いているが、あれが多数決の怖い面だなと思う。多数派が正しいなんて保証も理屈もぜんぜん無い制度が「多数決」なのである。

 むしろ民主主義としては、決をとるにいたる前の議会での議論や国民も巻き込んだ議論にこそ大事な部分があるのではないだろうかと思っている。
 議論の中にはもちろん、政見放送や国会質問なんて堅いのも含まれるが、一国民として声を上げるのも議論のうちに含まれるんだろうと思っている。
 だからお気楽ブロガーとしても、「原発反対」とか「水辺をコンクリで固めるな」とか書いているわけである。
 お気楽ブロガーの一言なんて、選挙の1票以上に全体から見れば小さなモノかも知れない。
 それでも、今時の「社会の声」としてニュースでもネット上で多くつぶやかれた言葉をひもといて関心事項を洗い出しているように、あきらかにそういう「声」が発せられるネット上のSNSだとかも民意を形作る道具となりつつあるように思う。

 選挙の、多数決の結果がどうあれ、少数派としてムカつくことがあればこれからも書き殴っておきたいと思うところである。
 魚や釣り具のことを楽しく書いていたいこのブログだが、ムカつかずにおれないこのご時世、お気楽ブロガーのお務めだと思うことにする。

2016年7月3日日曜日

カルト化するメイドインジャパンの釣り具

 良い宗教の簡単で乱暴な見分け方は「求められる1人あたりの手間やお金が大きくない」なんだそうな。
 葬式仏教なら、お布施はちょっとかかるけど、あとはナンマイダブとでも唱えておけば何とかなるお手軽さ。
 キリスト教徒なら普通もうちょっと真面目で、日曜には教会で祈ったりする。
 イスラム教徒は、毎日決まった時間にお祈りやら、断食やらでめんどくさそうだが、実際にはそれ程厳しくない宗派も多くて、そのあたりの普通のイスラム教徒達の生活とかは高野秀行先生の「イスラム飲酒紀行」を読むと雰囲気がつかめる。
 ダッカでコーラン暗唱できなかったからという理由で、国の発展の助けにと国際協力できていた人間を狩りやがったような過激な思想に傾いた輩どもがイスラム教徒の主流ではないというのは意識していないと大きな間違いをしかねない。

 一人一人のお布施や直接参加する行動が小さくても、沢山の信者がいたり、教団側が阿漕な儲けに走っていなかったりすれば、宗教としては成り立っていき、その中で、教義や教祖のカリスマやらからくる御利益の有る無しで違いは出るんだろうけど、まあ「良い宗教」といって良いらしい。

 逆をいえば、悪い宗教とは「金と手間がかかる」ものである。
 それも末期的なカルト教団とかになると、傾向が極端になり、極限られた信者しかついて来られないような教義の内容になって、特別なご利益を得るためには特別な信心が必要とされているような場合が多い。「他宗派をぶっ殺せ!」もなかなかついて行けない教義だし、「全私財をお布施として差し出せ」なんてのも良く聞く話である。多くの信者からこつこつ集めることがデキないから少ない信者にはものすごい負担を強いる構造に陥っていて、それがさらにそういったカルト化に拍車をかける。


 ひるがえって考えると、日本の釣り具業界は「カルト化」しかかってるんじゃないか?と不安に思えてくる。

 釣り人人口は減った。バスブームが牽引していた一時のブームを考えると、バス釣り自体が肩身の狭い思いをしているような今日の現状で、他の釣りをいくらはやらそうと、アジングだのエギングだのやってたって、そこらの近所の池にホイホイと釣りに行けたバス釣りとは自ずと収容できる人数に違いがあって、「釣りガール」含め笛吹けど踊ってないってわけでもなさそうだけど、釣り人人口減少分をおぎなうほどになっていない。

 その少なくなった釣り人人口で、かつ、安い釣り具は中国韓国東南アジアから入ってくる中で、日本の釣り具業界は、「高級品志向」に舵を切っているように見受けられる。
 まさに、その姿は信者の少ないカルト教団が高いお布施を払わせようとしている様に重なって見える。
 釣り人が少ないので一人あたりの単価を上げようとして、結果、釣りの敷居を上げてしまってさらに釣り人の減少に拍車をかけているというカルト教団なら破滅への道を転がるパターンに陥っているのではないかと心配になってくる。

 ありていに言って、そこらでシーバス釣るのに使うごときに、5万もする竿やリール買えるかよ?というところである。

 メーカーお抱えの「プロ釣り師」は「道具の値段は基本的に性能に比例するので、予算の許す範囲で高いの買ってください。」と薦めてくる。
 そりゃメーカーの立場に立ったらそう言うんだろう。そういう信仰だといってもいいかも。
 でも、道具に必要な性能は、釣り人の使いこなす技術で制限されるし、釣り方によっても制限される。
 極端な話をしたら、ドラグの使い方知らない人間が良いドラグ付いたリール使っても意味ないし、そこらでふつーにシーバス釣るぐらいなら、特殊なリールの性能など無くてもかまわない。
 私なら「道具なんてのは、とりあえず投げて巻けりゃなんとかなるので、とりあえず中古でも安モンでも良いので、買って釣りに行けばいいよ」と薦めておきたい。
 今時、多少安いからといって、20年以上前の設計のPENNとかよりは単体で使いにくいなんてことはないはずである。PENNで釣れるのにそれよりマシな道具で釣れないわけがない。

 もちろん競技の釣りやら、道具の限界まで使うような釣りやらがあって、そういう釣りをするためのハイエンドモデルがあっても良いんだけど、そうじゃない釣りには「この辺の安いモデルで十分ですよ」という売り方をしないと、最初にそろえる道具が10万円とかだと新規参入する人がいなくなるよという話である。
 シーバス始めるのに「竿とリールで10万円かかります。」というのと「最初は中古で竿1万ぐらいリール5千円ぐらいで充分行けるよ。」というのでは敷居の低さが違ってくると思うのだがどうなんだろう。

 正直、釣り具業界がミスリードして自分の首を絞めているように思う。
 今釣り具業界が根性入れて売らなければならないのは、新品で1万円台ぐらいの実用機や、それ以下の初心者モデルで、それを日本のメーカーは安い外国産に、ハイエンドモデルから引き継いだ使い良さとかで競り勝つ必要があるのではなかろうか。
 難しくても「やっぱり日本製は安くても良いゼ」と言わせないとダメだろうと思う。

 やれ船釣りだ、磯釣りだと、道具やらそろえなければならない釣りほど、釣り具業界は力を入れるけど、そういう敷居が高い釣りじゃない、のべ竿一本でデキるハゼ釣りみたいな釣りにも、当面のもうけがなくても力を入れて、釣り人を育てる必要があるのではないかと思う。
 最近チョコチョコとそういう小物釣りも人気になりつつあるように感じているけど、そいいう誰でもやれる気軽な釣りが、専門的でカルトな感じの釣りより「釣り全体」を見て大事な意味を持ってきているのではないかと思う。

 ここ数年、江戸前小物釣り師修行と称して小物釣りを楽しんできた現場から今そう感じる。

2016年6月26日日曜日

手長蝦釣り小ネタ


 テナガ釣りで、そろそろかかっただろうと上げてみると、途中まで重さを感じるけどすっぽ抜けというのがけっこうある。
 エビは餌を端からカジカジと囓っていくので、ハリまで食い切れてなくてある程度仕方ないのかなと思っていたが、ハリをタナゴ用の半月から、ちょっとサイズアップして手長エビバリの2号にしたら、活性高い状況においてはかなりすっぽ抜けが減った(ように感じた)。針先がやや長くて口に入ったけど抜けるというのが少ないのか、なんかわからんけどかかりやすいときがある。タナゴ針では小さすぎてかからず抜けるときがあるようにも思えてくるが、逆に半月の方がかかりが良い時もあって日によりけりなのかも。
 

 ということで、現地でハリを交換したりするのだが、よる年波で、0.3号のハリスで8の字結びでワッカを作るのとか、目も見えないし、指も思うように動かないしで、目の前でエビが釣れさかってたりすると気ばかり焦っていらいらすることになる。
 ということで、あらかじめ家でハリスでワッカを作った交換用のハリを用意しておき、釣り場ではよりもどしに通して接続するだけにしてみた。
 作業用の道具は、ハリのカエシもつぶしておいた方が手返しが良いので小型ペンチ、ハリス切る用のハサミ、8の字結びの補助として先を曲げた針金というところ。
  8の字のワッカ部分を引っかけて引っ張り出すための針金1本あるだけで、なかなか通せずイラッとするめんどくさい作業がだいぶ楽になる。

 8の字で結んだあとは、ルアーのフックが刺さってた発砲素材に切れ込みを入れて並べて刺しておく。
 左から使っていくように右から順番に指していく。

 これで、釣り場でのハリ交換はかなり改善したはずだ。
 細かいところだが、よりもどしをやや大きめにしておくと、これまた8の字で作ったワッカのついたハリを通して接続するのが楽なので、よりもどしは大きめがお勧め。
 ちなみに、ごく最近までワッカ側をよりもどしに通してからワッカにハリを通していたが、ハリからよりもどしに通した方が簡単というのに今更ながら気付いた。

 
 もう一つ小ネタ。
 テナガの最盛期は梅雨時の暑い時期ということもあって、昼の暑い時間帯に釣っているとすぐにバテてしまう。
 今日も梅雨の晴れ間なのだが、熱中症にならないようにこまめに給水とか、日焼け対策とかしたところで、炎天下の釣りはいい加減オッサンには無理があるというモノで出足が鈍る。

 ということで、夕涼みがてら、という夜釣りの方法を考えてみた。
 基本、玉浮きの下に小サイズのケミホタルを付けたシンプルな仕掛け。
 これで、夜障害物の少ない釣り場で、ヘッドライトでエビの光る目を探しながら釣ろうという目論見である。

 今晩か、来週か?

2016年6月18日土曜日

ラパラマグナム屋繁盛記リブート

 一応の終幕を迎えた後もダラダラと続いておりますルアー図鑑うすしお味はいつのまにやら第32弾。ラパラマグナム屋のその後について、もう、実弾は十分すぎるほど確保しているのにそれでもなんだりかんだっり買っちまったりしているので報告してみたい。

 ラパラジャパンのサイトを見ていたら、一時期フローティングステンレススチールマグナム14センチがカタログに載っていて、11センチも欲しいところだが、とりあえずはFマグ販売中止状態から復活したようだったので、2票入れるつもりで2個買ってみた。青鯖と緑鯖を買ったけどいぶし銀のようなメタリックさでなかなかカッコいい。メイドインアイルランドとリップに入っており、直近のエストニア製と思われるFマグには国名表記が無かったので、ひょっとするとアイルランド工場時代の在庫が残っていてそれを放出していたという可能性もある。
 現時点ではまたカタログ落ちしてしまっており、Fマグ生産ライン復活を引き続きお願いしたい。

  Fマグ9センチと7センチはあまり出番がないのかなと思って買ってなかったけど、11センチだと思って買ってきたら間違えて9センチだったというのをやらかし、そうするとあとFマグで買ってないのは7センチだけなのでコンプリートしようと買ってもた。
 Fマグ全サイズ18,14,11,9,7でこれでコンプリートで、緑鯖でそろえちゃいました。しかし、7センチは廃盤のうえ玉数少なく、ネットオークションでなんとか確保。
 よく釣具屋の壁に、ラパラの各サイズが額装して飾られていたりするが、全部赤頭とか黒銀でそろっててなかなかイカす感じで、そういうのをやりたかったのである。
 しかし、これでコンプリートと思ってたのに、つい最近どうみてもFマグの26センチもあるやつがネットオークションに出ているのを発見してしまった。ググってみると「スーパーマグナム」というらしい。80年代にでてたようだ。
 欲しかったが、好きモノがいるようでとても落札できるような金額じゃなかった。

 CDマグもめざせ全サイズコンプリートと行きたいのだが、これが「全サイズ」の定義自体からまず難しい。「ラパラ解体新書」でみると、26,22,18,14,12,11,9,8,7の9サイズとなっているが、うちの蔵に13センチというのが転がっているので、いろんな時代のをあわせると、どうも9サイズで全部ではないのかもしれない。13センチは「スリム」タイプで、我が家にあるのでは他に8センチもスリムっぽい。スリムがあるサイズはノーマルは無いのかあるのかのあたりも含めてよくわかんない。
とりあえずコンプリートにはならなくても、CDマグ最大の26センチは迫力あってカッコいいので使うアテは無いけど欲しいと思ってしまっていて、ネットオークションで落としちゃいました。
 普段使うFマグ11センチと比較していかにドデカいか感じていただければと思う。


 おまけは、ラパラリスペクトというかパクったルアー達。

 1個目は佐賀の漁具系優良ルアーメーカー「ヨーズり」さんもこんなんやっちゃってました。これまたプラで作ったFマグという感じ。
 もうね、このリップの形に堂々と[YO-ZURI JAPAN」と書いているあたりは「Fマグ」というのが既に「重心移動ミノー」とか「ディープダイビングミノー」みたいな一ジャンルに近いぐらい普及していたということなのかなとみてて思う。





 CDマグタイプの金属リップをそなえたトローリングミノーとしては、ミローやシスコキッドが有名どころ(日本じゃ?)で他にバスプロショップスもオリジナルブランドで出していたように記憶していますが、レーベルからこんなん出てたなんて不意打ち。
 レーベル「ジョーブレーカー」

 後発で似たようなルアーがいくつも出てくるあたり、ラパラマグナム軍団がいかに世界で愛され実績を上げてきたかがしのばれるというもの。

 頼りにしているので今後もよろしく。