2016年3月12日土曜日

自分自身の若さ故の過ちというものを

 学生時代、自分は募金とか絶対しないと公言していた。曰く、
「世界のどこかに飢えている人がいるなら、小銭出しとけばどうこうなるような問題ではなく、そういう誤った世界を変えるべく努力すべきである。そこまでたいそうなことができなくても、少なくとも社会に出て自分なりに貢献して役目を果たすなどやるべきことは他にあるはずである。募金して良いことした気になって満足しているなんて愚かだし偽善というものである。」
だとかなんとか。
 
 もう何というか痛い野郎というか、何様ダてめえ!というか、「オジさんもう恥ずかしくって耐えられないからやめてあげて!」とタイムマシンで当時の自分に声をかけてあげたいぐらいだという感じだ。どこの意識高い系だと若かりし自分に突っ込みたい。私は意識が高い人は尊敬するが、小賢しく洒落臭いことを偉そうに言ってるだけの意識高い「系」の人間は嫌悪している。相田みつおが大嫌いだと言えば分かってもらえるだろうか?好きな人ゴメンナサイね。でも虫ズが走るぐらい嫌い。


 「3.11」の大震災から5年がたったわけだが、震災後「やらない善よりやる偽善」という言葉をよく目にするようになった。
 そうだよねと今は素直に思ってて、募金箱とかコンビニで小銭を入れたりしているし、海外の災害なんかでも今ではネットで思い立ったらすぐ募金というのもできるので、偽善かもしれないし単なる自己満足かもしれないがちょくちょくポチッとしている。

 若い頃の自分が思っていたよりもグダグダのオッサンになって、自分が世界を変えることもなければ、病気がちで社会に貢献どころか足引っ張らないことさえ難しいと感じる実態を鑑み、自分にできるせめてものこととして募金なり何なりをするように自然となっていったという背景があったのと、募金するということに関しては、転機となった強烈に印象に残っていることがある。

 テレビで国境なき医師団的な活動をする日本人のお医者さんを追ったルポだったと思うが、最初、その地域で病気の流行によって多くの人が亡くなっていることをその医師が淡々と事務的に説明する様をカメラは撮っている。医師の口調は平坦でしゃべっている内容のものすごい数の死者とかと不釣り合いで、人が死ぬことが当たり前すぎて、この医師にとっては特段驚くべきことでもないのだろうか?医師としては優秀なのかも知れないが人間としてちょっと冷酷なのではないか?と疑問に思うぐらいだった。
 インタビュアーもそう感じたのだろうか、「日本では遠い国の見知らぬ人のために募金したりするのは単なる偽善ではないかという意見も聞くがどう思うか?」というような、暗にアンタのやってることも偽善じゃないのと臭わせるような挑発的ともとれるちょっと意地悪な質問を投げかけた。
 医師激高、目に涙を浮かべて「ここでは人手も薬も何もかもが足りてません!偽善でも何でもいいからお金を送ってくれれば、我々がそれを使ってあげますよ、募金してください!」というようなことをまくしたてた。
 人が目の前でバタバタと死んで、金も人も不十分で、そういう状況を耐えるために心を殺して動かさないようにしていなければ自分すら守れないようななかで、献身的に活動している人がいると知って、「募金ぐらいはせめてするべきだな」と反省したしだいである。
 ちゃんとしたところに募金して、そういう人たちにお金が届くようにしようというのは、偽善っていうほどでもないし小賢しくもないように思う。
 若い頃のナマジからすればなんか言われるかも知れないが、ジジイになったナマジからは特段文句は出ないような気がする。

 学生時代のナマジ君は、魚の増養殖関係の研究者になって、立派な研究成果を出して食糧問題とかの改善に貢献しようとか思っていたんだろうなと思う。まあ若い頃は夢見がちだよねというところ。
 そういう立派な大人にはなれなかったわけだが、期せずしてお気楽ブロガーという、言いたいことを好きなように発信していい立場の大人には気付けばなっている。ネットが普及するまで一般の人間が意見を公に発信するには、街頭演説とか新聞に投書とか、めんどくさい手段しか無かったわけで、そう考えると恵まれている。

 我らお気楽ブロガー達一人一人の力は微々たるモノであるが、沢山の人があちこちで書くことに意味があるんだと思うので、私も震災以降腹に据えかねている2点について、しつこくまた書いておきたい。若い頃のナマジもジジイになったナマジもそうすべきだと言ってくれるだろう。


 一つは「原発反対」である。このタイミングで原発のコストがどうなのかとか改めて特集組んでいる記事とかもけっこうあったが、福島の事故の処理に3兆円だか今現在確定しているだけで掛かると聞いた時点で、推進派の主な論点の経済性がどうとかいうのも馬鹿臭いと感じるし、CO2の排出量がとかショボい話はだったら太陽光でも風力でも代替エネルギー進めとけという話だし、経済も含めそういう「周辺事情」は結局、事故を起こしたらとんでもなく危険という根本的な問題の前にはどうでも良いとさえ思うんだが、なんで今現在原発廃止の方向になってないんだという憤り。大きな事故が起こる前の時点で、事故のリスクは少なくてどうこうとかいう主張はまだ理解できるが、これだけ大規模にやらかしておいて、その後もまだ原発が必要という心情がまず理解できない。原発運用していれば必ず事故はまた起こる。自分が生きてきた40数年でさえ臨界という核反応までいった大事故は東海村と福島の2回も起きている。20年に一回大事故起こす、しかも福島以上の大惨事もあり得るのが核利用のリスクだと想定できているのかと問いたい。今後は事故は起こらないというならこれまでも起こらなかったという単純な話だがなにが分からないのか分からない。

 もう一つは「高い防潮堤反対」である。千年に一度の大津波の前には10mクラスだろうが堤防無駄だった例の方が多くて、結局地震があったらすぐ高台に逃げるとか、そもそも住居は高台に移転とかそういうソフト面で対応するしか無いというのが教訓だったと思うんだけど違うの?増税の話とか出てるけど、物理的にも金額的にもクソ高い堤防作る無駄な金がどこにあるんだという中で、なんで高い堤防作るコンクリ派が盛り返してるかな?多くの自治体で高い堤防は作らないという選択がなされている中で、我が愛する気仙沼に最も高いところで15mとかいう防潮堤の計画があって賛否両論あるようだが、ここに私は明確に反対の意思を明記しておきたい。そこに住んでいない人間が口を挟むのはどうかという意見もあるかもだが岡目八目ということもあり、またこの件については住んでいる人の反対も大きいということも紹介しておきたい。10年に1度レベルの津波を防げる以前あった2~3mの防潮堤ぐらいのレベルで十分だろうと思うのだが、ここぞとばかりに震災復興を食い物にしようとしている輩がいるとしか思えず、15mの防潮堤で海と隔絶された光景を想像するのとあわせて不愉快きわまりない。


 5年前の震災は、その前と後とで自分の中の何かが変わったぐらいのできごとだった。遠く離れた横浜でその時をむかえた自分でさえそうなのだから、実際に現地で被災した方々の中にはたぶん一生消えない爪痕を残したと想像に難くない。それでも人は生きていかなければならず、その生きていく中には喜びも苦しみも当然あるだろう。できるかぎり喜びが多く苦しみの少なからんことをと願うとともに、震災で無くなった方と震災関連死といわれる方々のご冥福をお祈りします。

2 件のコメント:

  1. こんにちは。つよしと申します。こそっと毎週拝見しております。神奈川~山梨で春秋渓流、夏ナマズといった具合に魚に遊んでもらっております。
    当方40過ぎたのですが、諸々お書きになってるとおりに感じておりコメントを投稿させていただいてます。募金もするようになり、東電と国に腹をたて、バカげた津波対策に憤る毎日です。
    結局、住んでいる方々のことといいつつも、その方々の幸せは無視しているですよね。人命についても、とにかく失われなけれないいという話ではなくて、幸せな生活を送りつつ、しかも守っていくということが大事なはずで、そのためには城壁のような防潮堤は好ましくないことは簡単にわかることなのですが。
    当方の家の近くでも川の流れを変えるような工事をやってて、テトラが入ったりしてます。別に洪水が起こってるわけでもないのになんでなのか全く不明。

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  2. つよしさん こんにちは

     「幸せな生活」が大事、全くそのとおりだと思います。
     数字上で100年に1度の津波でも死者0ですとなるとか、そういう人の生活を見てない机上の理屈と自己満足で、人が楽しく幸せに暮らしてけるかというと、むしろ逆につまんねえ暮らしになりそうなのは想像に難くないですよね。
     結局人は自分が信じたいことしか信じないので、高い防潮堤が必要だと思っている側のそれで飯が食えるような人は、それが正しいと信じているンだろうとは思いますが、いい加減にしろとピシャッと蹴っ飛ばす仕組みがないものかと思います。

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