2017年4月15日土曜日

今ここにあるディストピア

 東京湾奥のシーバス釣り場がいよいよ狭まってきた。

 職場から近いC川の川沿いのテラスは多くの場所で「投げ釣り禁止」だそうな、「桜護岸」のある運河も「ルアー釣り禁止」の立て看板が立ったとか。
 テロ対策やらでそれまで「黙認」されていたような企業の駐車場とかから釣り人が追い出される動きはずっと感じていたものだけど、ここに来て「釣り人」を締め出すというより、もっと具体的に「ルアーマン」が締め出される動きが出てきた。

 「投げ釣り」「ルアー釣り」が禁止された場所でも延べ竿でハゼ釣りはできるし、落とし込みのチヌ釣りとかもルール上は問題なさそう。
 要するに、「人が歩くテラスやら公園やらでハリのついたルアーを振り回すな危険。」ということだろう。
 危険じゃないか?と聞かれれば、それは多少は気をつけていても事故が起こる可能性はあるわけで危険じゃないとまではいえない。実際に橋の上にルアーを飛ばしてしまい通行人を釣ったんだか釣りかけたんだかという事故があったらしい。
 それでも、めったに起きない事故だと思うし、今までみんな楽しく釣ってたのに今更かよという気がしてならない。
 なんというか、事故があると面倒だからボール使用禁止、ペット禁止、飲食禁止、芝生立ち入り禁止とか禁止だらけで何もできなくなった公園に感じる不条理を感じざるを得ない。
 ガキども仕方なくゲームしたりしてて「子供は元気に外で遊べ」とか言われても禁止されてばかりでどこで遊べというのか気の毒になってくる。ゲームがダメとは思わんけど怪我する機会も与えられないってどうなのよ?
 と同じような不条理を東京湾のシーバスマンも味あわされつつある気がする。
 シーバスマンなんていう全体から見れば少数派の人間のちょっとした楽しみなんて安全様のためなら踏みにじってもかまわないと思われているならムカつく。
 抜け道的に「投げ釣り禁止」なら延べ竿でルアー使ったろかとか、「ルアー釣り禁止」ならフライ振ったろかとかも考えたけど、姑息なうえに正しくもなさそうな気がする。レジスタンス的にやってみる価値はあるのかも知れないが、正直気は進まない。

 加えてルアーマンがいじめられることになる根っこにある問題として日本の社会全体が「不寛容」になってきていることがあるのではないかと愚考している。「不寛容」というか有り体にいって小うるさくなってきた。
 たぶん昔の日本の村社会なら暗黙の了解だったようなことが、核家族化や都市への人の流れとかが進むにつれて機能しなくなって「ルールがなければ何をしても自由」という、権利と責任の考え方を間違ったような輩が増えるにつれ、いちいち小うるさくルールにしていかないと問題が生じるようになってきたというのもあるのではないだろうか。
 公園でよそもんが危ない遊びをしていたら、昔ならそこをシマにしているガキ大将が〆ておしまいだったのが、今時そんなことをやったら「何の権限があってそんなことを言っている」だの「そんなルールがどこにある」だのこうるせぇことをいうやつが出てくるだろう。
 権利とか自由には責任がついてまわるということを分かってないこういうバカには、昔なら「うるせえバカ、黙ってろ!」で済んだはずなのに、欧米的な個人の権利の考え方が悪い方にすっ転んだような「言ったモン勝ち」の今の日本ではそうはならないというのがクソみたいな現実か。
 例を出すなら、川で遊んでいて溺れた時に「川を管理する自治体に責任がある」とか言い始めるバカが典型か。川で遊ぶ自由は川での安全やら何やらの責任とセットであるはずで、それをバカが他人に責任を持っていこうとするから、責任をなすりつけられた管理者としては「川で遊ぶの禁止」にするという、クソしょうもない話になるのである。
 なぜ、この程度の問題が「黙ってろ!」の一言で済まずに訴訟まで行くのか、理解できない私が間違っているのだろうか?

 とはいえ、自分の子供が死んだとかで、その親とかならまあ分かる。行き場のない思いをどっかにぶつけずにいられないということもあるだろう。ただそういう親がいたとしても、全体としては「川で遊ぶときは気をつけて遊びましょうね」という方向に落ちるべきだと思うのだが、どうも今の社会は全体として「危険だから遊ばないようにしましょう」という方向に向いてしまっている気がする。
 先日の雪崩で亡くなった高校生の件でも、高校生の雪山登山は禁止の方向だそうだ。
 本来、危険を冒すのも含めて、イメージ悪くなった言葉ではあるけど「自己責任」のはずで、それに他人がとやかく口を出すのは大きなお節介だし、冒険的なリスクを取る行動を制限していく方向性は人間という世界の隅々まで冒険探検して発展してきた生き物の根幹に関わる過ちだと思う。
 もちろん、安全対策のため情報共有やらときには警告も必要だろう。だとしても「危険を冒してでもやる行動」にくだらない制限をかけるなといいたい。
 危険な水辺の看板には小説のタイトルじゃないけど「泳ぐのに安全でも適切でもありません」ぐらいであとは個人の判断と責任で良いじゃないかと思うのである。

 なんというか、個人が命を削ったりする行為に対して、お節介に過保護な世の中になってきているのではないかという気がしてならない。
 タバコは吸うなとかも、タバコ吸わない人間から見ても異様なぐらいにタバコを吸っている人間の楽しみにいらん世話を焼いている気がする。そんなもん吸いたくない人間が吸わなくてすむように分煙さえできれば個人の嗜好にとやかくいうなと思うのだが、今日日喫煙者は人格否定されかねない勢いで非難されている気がする。現代の魔女狩りといっていいのではないだろうか。
 ほかにも、太るなだのジャンクフード食うなだの「お前はオレのかーちゃんか?」というような小言を社会全体から浴びている気がする。
 なんというか、健康で長生きするのが一番という価値観にオレを巻き込まないで欲しい。
 そういうお節介な優しさに溢れた社会を痛烈に皮肉った「ハーモニー」というディストピア小説をちょっと前に読んだけど、酒やタバコはもってのほか、カフェインさえ健康のために取るべきではないと優しい人々にやり込められる科学者に痛く同情したものである。
 家畜のように管理されて健康で長生きしてなんになる?出荷でもされる気か?

 東京湾からシーバス釣り場が減るのは単純に悲しく腹立たしいが、それ以上に、我々の社会がどうも危険を冒すことを制限するディストピアに足をどっぷり突っ込んでしまっているような気持ちの悪さを感じるので、ひとくさり書いてみたところ。

 「あしたのジョー」を読んで育った昭和の男としては、健康で長生きするよりも一瞬でいいから真っ白な灰になるぐらいに燃え尽きて死にたい。
 新しいことに挑戦し続けて失敗し続け、勝ち目の少ない勝負を挑み続けて負け続け、ストレス満載な危機に身をさらし続け、暴飲暴食、疲労困憊で健康を害し早死にしたとしても、穏やかに健やかに面白いこともなく長生きするようなつまらん人生よりは満足して死ねるだろう。

2 件のコメント:

  1. およよっ、なんかパズル解くみたいなちゃんとしたヘラ釣りっぽくなってきたな。
    ヘラのこと知らんので文中シャレなのか比喩なのか皮肉なのかよくわからん部分あるのでオイラもヘラの基礎勉強するわ!

    返信削除
  2. まいど おはようさん

     ヘラ釣りのまねごとくらいにはなってきた気がする。
     なんぼか釣ってから家に帰って、また本とか読むと「そういうことか」と納得するような部分が出てきて勉強になる。予習復習って大事やね。
     毎日でも行きたいけどヨレヨレでどうにもならんので浮子でも作るかという感じ。まあそれも楽しい。

    返信削除