2017年12月7日木曜日

物理で殴ればいい!って時代じゃないのかねェ?

 相撲が盛り上がるためには良いヒール(悪役)が必要だ、というのが持論である。

 なので、実質一人で悪役を引き受けている形だった白鵬関が取り組みでは荒々しいところも見せているけど、土俵外では巡業中後輩の披露宴に出ようとして非難を受けるとか、言いがかりとしかいえないようないちゃもんつけられるぐらいガチガチに監視管理されてて今一大人しいので、公傷休業中にサッカーやってたりしたやんちゃな朝青龍関ほどは悪役として迫力が足りんなと嘆いていたところ、今回の日馬富士関の騒動が起こって、土俵の上では小兵ながらも誰よりも低く突っ込む立ち会いの抜群の速さと技の切れでお手本となるような横綱が、土俵下では酒癖悪くて生意気な後輩ビール瓶でドついたとか聞いて、正直拍手喝采を送ったところだ。
 しかも、白鵬関と仲が悪いことは相撲ファンには周知の貴乃花親方が、出るとこ出る的な、なにやら画策している気配もしてきて、もう、そういう土俵外のドロドロの遺恨とか騒動って他の格闘技じゃむしろ歓迎されてるぐらいで、プロレスじゃワザとそういう構図を作り出してみせるのを示す「アングル」という用語があるぐらいで正直メチャクチャ期待した。
 今年格闘技界最大のビックイベントはコナー・マクレガー対フロイド・メイウェザーだったけど、なぜあれだけ盛り上がったかといえば、両選手が悪役として超一流の人気選手だった上に、試合前からこれでもかっていうぐらいにSNSから各地を回っての共同記者会見からで「アングル」的に煽ったからというのがあったと思う。試合前の記者会見で優等生どうしが「お互いベストを尽くしましょう」とか握手したって盛り上がるかよと、「ザ・ノートリアス(悪名高き)」マクレガーが「お前なんか3ラウンド以内に倒してやる」と罵れば「マネー(銭)」の異名をとるメイウェザーが札束鞄からまき散らしながら「オレはお前と戦うために練習なんかしないし負けるわけがない」とか悪態つきまくるからこそ、互いのファンは頭に血管切れるぐらい血がのぼって応援にも気合いが入ったというモノである。大方の予想通りマクレガー負けてオレは悔しかったけどメチャクチャ盛り上がったし楽しめた。
 なのにどうなのよ、日馬富士引退って幕切れは。一番つまんねェ落としどころだろと。

 まあ、被害届出されて書類送検されてしまえば、傷害事件には間違いないだろうから引退は当たり前っちゃ当たり前だけど、そうならないようにグニャグニャッと貴乃花親方を丸め込んで被害届引っ込めさせてうやむやにして、うやむやにしたことに対する批判も注目が上がる好機と喜んでほくそ笑むぐらいの清濁あわせ飲む黒幕的な仕掛け人が相撲協会にはいないのかね?
 すっかり悪役軍団と化した主流モンゴル軍団とドロドロの対立関係となる貴乃花部屋、そしてどちらに付くべきか基本的に気が小さいので判断しかねる他の日本人力士の力関係やいかに、的な構図の中で本割りで日馬富士関と高ノ岩関の直接対決とか来たら、クソ盛り上がるのにと下世話に思う。
 日馬富士いなくなって、残るモンゴル出身横綱鶴竜関は見た目が悪役向きじゃないホンワカした癒やし系でそもそも休場多くてってなると、白鵬関一人じゃ多少荒ぶったところで今まで通りで正直飽きてくる。白鵬関いうてもそれ程悪役じゃないし横綱としては大横綱だけど悪役としては文春砲も食らってるけどありきたりで小粒感が否めず、貴乃花親方との確執がもっと取り組みにも反映されてくるぐらい泥沼化するとかに期待か。相撲を面白くするにはもっと憎々しい悪役の登場が望まれる。どっかの部屋がアフリカとかから相撲の伝統をぶち壊すぐらいの超弩級の新弟子みつけてこんもんかいナ。

 日馬富士問題は連日うるさいぐらい報道されているようでネット上でも「日馬富士問題ばかりでウザい」とかの見出しが散見されるが、当方TVニュース見ないし新聞読まないし、どうせ報道とか当たり障りのない毒にも薬にもならんおためごかしなことしか書いてないだろうとネットニュースの見出しだけみて済ましているが(それでも大まかな流れが追えてしまうという報道ぶり)、実際にはTVで相撲観てる人間なんて下世話に面白がってる人間ばっかりで、報道とかで論者が言ってるであろうご高説なんて、相撲の盛り上がりにはハッキリ言ってあんまり関係ないので下世話な視聴者の一人としては見出しだけ見とけば充分だと思っている。
 下世話な視聴者なんて、ちょっと右寄りにモンゴル力士なんかやっつけろと声援を送ってるのが声が大きくて、あとは日本出身力士がふがいないとぼやくか、地元出身の力士応援するかぐらいで、たぶん、報道では大方の論者は土俵外の暴力は許せないとか、横綱には品格が求められるとか、角界の悪しき伝統や事なかれ主義を改める必要があるとか優等生なことを主張しているのだろうけど、ようは右寄りの相撲ファンが喜ぶモンゴル力士の不祥事が出たので尻馬に乗ってはやし立ててるにすぎず鼻くそほじってポイって感じである。
 で、たまに「相撲取りの飲み会で手が出たくらい大目にみたれよ」と、実は多くの人が心の中で思っているだろうことを有名人がSNSとかで発言したりすると、つるし上げを食らったりしている。まあ社会正義の戦士(SJW)様の格好の餌食だわな。あーあ言っちゃった、有名人は大変だなァと匿名で何を書いても自由なお気楽ブロガーは正直思う。思いつつ多分有名人が、批判されるのは承知の上であえて言わずにいられなかった、みんながみんな暴力を全否定することの気持ち悪さや不気味さについて、私も感じるところがあるので、天邪鬼なお気楽ブロガーのつとめとしてちょっと書いておきたい。

 簡単に言えば、暴力っていっても程度問題だろってことである。

 って書くと社会正義の戦士様から「いかなる暴力にも反対である、暴力を肯定するあなたは間違っている」と、言葉の暴力を受けてしまいそうである。
 まず、暴力とはなんぞやという根本の定義からして例によって例のごとくキッチリ線の引けるモノではなくて難しいンである、上記のような台詞を吐く社会正義の戦士様は多分、漠然と「物理的に人の体を傷つける行為」が暴力だぐらいにいい加減な認識で人様を攻撃しているんだと思うけど、まったく「暴力」の定義として妥当からほど遠い。
 「暴力」っていうときに広い範囲で考えれば当然言葉の暴力も入ってくる。暴力を振るった場合に適応される代表的な罪である「傷害罪」でも、裁判所が嫌がらせの電話をもって傷害罪と認めている例もあってたぶん現時点の定義として暴力は物理的な方法だけでないし、傷を負うのも身体のみならず精神的なものも含まれる大きな概念になっているはずである。すべての暴力を振るっても振るわれてもいない人間なんてこの日本の社会に存在しないと私は思っている。
 
 今回の事件は日馬富士関も「ドついた」ことについては認めていて、明らかな「暴力」があってまず間違いなく傷害罪としては成立していて、警察から検察に書類送検されたからには、あとは起訴されて裁判か略式命令で罰則がどのくらいになるか、あるいはこれだけ騒ぎになると無いとはおもうけど検察が起訴を見送る起訴猶予とかになるかとかが決まっていくんだと思う。罪にあたらないと検察が判断する「不起訴」にはならんと思う。
 じゃあやっぱり暴力振るった日馬富士が悪いじゃないか、横綱としての品格を損なうとんでもねえ輩だという話になるかというと、そうとも限らねえだろうよと思うのである。もともともめ事収めるのに野見宿禰と当麻蹶速が殺し合ったのが起源とかいわれる紛れもない「暴力」を競い合う格闘技である相撲に品格求めるってどうなのよ?てのは私の好みの問題なので捨て置いても、生意気言った後輩をビール瓶かリモコンか何か知らんけどモノでドついたぐらいでいちいち刑事事件にして罰しなくてはいけないのかと考えれば、なんぼ平和な街の県警でも他に仕事あるだろうと思うし、酔いが覚めたら謝って済む程度だと正直思う。
 100キロオーバーの巨漢がまさにガチンコで頭からぶつかり合う競技の格闘家が1キロも無いようなモノでドつかれたぐらい四股踏んどきゃ治るだろと思う。衝撃のエネルギー量は質量と速度の2乗に比例するはずだから、速度あんまりかわらんかったら2桁も違うショボさですよ。頭突きが危険な技としてルール上禁止されてない格闘技って日本で興行しているなかでは相撲とラウェイぐらいってぐらい頭突きって強烈で、それに耐えてみせる猛者どもが少々「暴力」に関する許容範囲が一般とズレてても当たり前だろと。実際はどの程度の暴力だったのかまだ明らかじゃないとしても、いずれにせよ今回の事件の「暴力」の程度はショボいだろと思う。
 程度問題としてこれが、日馬富士関が手は出さなくて換わりにこっぴどく説教した場合どうだろうか?普通「暴力」としては認識されなくて、常識的な指導ということになるだろう。ただその場合でも高ノ岩が精神的苦痛をうけ心理的外傷を負ったとか診断書が出てきて日馬富士を訴えたら、警察としては捜査するだろうし各種証拠を基に場合によっては書類送検、起訴、裁判、有罪判決というのもないことはない。まあ、飲んで気が大きくなったとはいえ「オマエらの時代は終わった」とか先輩にたてつく気の強い力士の精神を傷害と認められるまで傷つけることなど現実的ではないにしてもだ。

 法律で決まっているとおり、裁判所の出した判例どおり罪は罪だと罰していくべきだというのは正論かも知れないけど、いちいち面倒くさいしで現実的じゃない。前にも書いたけど法律だのルールだのってのは道具であって万能じゃない。そのへん適当に運用されてて、別に親告罪といって被害者から届け出があって初めて成立する罪じゃ無いので、傷害罪って警察が独自捜査で立件してもいい。現実に盛り場パトロールとかしててケンカとかみつけたら警察は職務として傷害罪での立件を視野に捜査に入るはず。
 でも、警察が見ていないところでカッとなって手が出たとか相手に精神的苦痛を与えるぐらい罵倒したとか、あとで謝って和解したとか本人同士が問題にする気がなければ、被害届出さなきゃ警察知るよしもなしでうやむやだってのが現実である。本人同士が良いって言ってて程度がショボければ、誰も文句は無いんだし警察無駄に働く必要は無い。逆に相撲界の常識だと言ったって過去にあったように過度の「かわいがり」で新弟子が大怪我したとかなら全くショボくないので被害届が有ろうが無かろうが捜査すべき程度だろうと極端な例なら誰でも思うだろう。

 っていうぐらいに、「暴力」なんて程度問題で現実には許容されていたりするのに、程度云々は関係なしに一切の「暴力」を悪という大前提で当たり前のように話を進めようとする人間が多いことにまずは気持ちの悪さを感じる。さっき書いたような言葉の暴力まで含めた大きな概念の「暴力」を一切振るわずに生きてる人間なんてまずいないはずである。っていうか物理的に傷つける行為のみが「暴力」だと思っているなら、それ以外の「暴力」を自分が振るうとき「暴力」であると認識さえしないで罪悪感なく振るうだろう。事実、暴力をある程度容認する人間を「暴力反対」とつるし上げる人間は相手の言葉を全く聞かずに言葉の暴力を振るっているようにしか見えない(書いてて分かりやすい例を思いついたなと思ったけど、誰かがコレ書いてたな。誰か忘れたけど借ります)。

 もう一つ気持ち悪いのが、そういう「暴力反対」みたいな一見正義っぽくて分かりやすい短い言葉に突き動かされて、ちょっとでも誤りを犯した人間を監視し密告し断罪する社会が、政府とか体制が作り上げたんじゃなくて、マスコミが流したりネットで飛び交う情報を介して大衆が作り上げつつあって、ディストピアもののSFまがいの現実が今ここにあるということである。
 飛び交う情報の量が増えたのもあるのだろうけど、情報に「短く簡潔に分かりやすく」というのが求められがちで、仕事でもよく「ナマジ君文章が長い、コレじゃ誰も読まない」と指摘を受けたけど、全くその通りで長いと読んでもらえないんだけど、でもどうしても短くわかりやすくすると書き切れなくて大事なことまで漏れる。漏れるけど読んでもらえなきゃ始まらないので短くせざるを得ないという矛盾に仕事では苦労してたので、私生活では短文のツイッターとか実名性のSNSじゃなくて、匿名でクドクド好きに書きまくれるブログを書いているわけである。読んでくれてる人ありがとね。
 本当は日馬富士関の振るった暴力がどの程度だったのかなんていうのは、当事者以外が客観的に知ろうと思えば、裁判によって開示された証拠なりを見なきゃわからんわけで、それを単に「暴力」があったという事実をもって、世界的に蔓延する気持ちの悪い国粋主義に乗っかって「ほらみろモンゴルの野郎は」てな感じでお気楽に断罪するというのは見てて不愉快きわまりなく、ネットでは擁護する少数意見もみかけるんだけど「暴力」=「悪」という単純な図式を短く分かりやすく否定するのは難しいので、表だっては旗色が悪い。ので私はどちらかというと日馬富士関擁護に今回まわっている。

 あと個人的に、なんでも裁判とかに訴える訴訟社会が嫌なので、貴乃花親方には言い分はあるんだろうけどとりあえず、同じ業界の中で謝罪すらうけないというのはどうかとやっぱり思う。まあ、命懸けで競い合ってる中でドロドロの確執とかあって、なあなあで済まされては我慢ならんとかあったんだろうと容易に想像できるけど、このへんは世間様も「空気読んで許せよ」と「相撲協会の腐敗を改革せよ」とかの立場分かれるようで、今の段階ではなんともいいがたい。裁判とかになったらいろいろ明らかになるんだろうからその頃に見だしだけじゃなくて記事も読んでみるか。
 日本のいやーな村社会的な狭い社会の中で陰湿ないじめとかあった場合に、多数派が「いじめなんてありませんよ」とか言ってたら、外部からは一見いじめられている人間が嘘つきに見えてしまう。そんな中でもちゃんと証拠取って出るところに出れば勝てる手段があるというのはとても大事なんだろうけど、その方法はメチャクチャ手間暇がかかる。訴える方も訴えられた方ももちろん、裁判となれば警察、検察、裁判所と巻き込む。それが最終手段じゃなくて最初の選択な社会になると手間暇かかる上に、いつ訴えられるか心配で議論もろくにできない好きなことも言えないような社会になる。というかなりつつある。かつ裁判のその結果が最終的な正しい答えだという風潮も気に入らない。裁判の結果は裁判所の判断であって、正しさを判断する道具ではあるけど絶対的に間違いのない正解というわけでもないと思う。立場が違えば自ずと「正義」も違うはずで、間に入って裁定者として法の下に客観的に平等に振る舞うのが裁判所の仕事だとしても完全な客観性などあり得ない。
 何でもかんでも訴訟とか、そういう面倒くせえ社会にならないように、日本の古き良き村社会的な話し合いでなあなあに双方合意できる落としどころに持っていくとか、組織の長が早めに問題潰したり目をかけるとかのほうがめんどうなくていいって。と思うのである。


 なんでか知らないけど、「暴力」って絶対悪として認識されているように感じていて、物語の中では正義の味方も思いっきり暴力ふるってるし、アメリカとかロシアとか大国は暴力の権化みたいな「空爆」とかしてて暴力が絶対悪なら悪の大国なんだけど(そうかもしれんけど)、別に悪が滅びる気配もないしで、大前提として「暴力必要なときもあるよ」もしくは「暴力現実には使いまくってるし幅効かせてるよ」ってのは薄々感じてて、以前にも学校での体罰問題についても文章書いてみたりしてたんだけど、どうにもつるし上げ食らいそうでお蔵入りにしてた。
 でも、最近のしょうもない(と私が感じる)ことで実に粘着質に断罪して謝罪を要求したりする社会正義の戦士達の跋扈にはイラッイラとくるものがあったので、ゲリラ戦を挑むべく日馬富士問題について書いてみた。
 読む人も限られる個人のブログの戦力など微々たるものかも知れないが、その攻撃を止めることが実質的に難しいというのは現実の戦争におけるゲリラ戦同様。およそなんの規制も受けずに好き放題書けて、反論なりがきてこちらに不都合があれば管理者権限で削除したって良いので、この小さなブログでチクチク攻撃することに社会正義の戦士様達は反撃する手段がほぼない。
 というわけで、お蔵入りにしていた学校での体罰問題についての文章も今回ついでに復活させて、もうちょっと「暴力」について書いてみたい。


 「学校教育法」には「体罰を加えることはできない」と明記されているとのことで、現行法制度上教育現場における「体罰」は明確な違法行為である。でも「それがルールだからダメ」という説明は、「じゃあルール変えろよ」という話になるだけで根本的な良い悪いの議論の際の答えにはなり得ないと思っている。繰り返し書くけど法律なんて道具に過ぎない。目的のために適切じゃないなら道具は変えたり直したりするべきだろう。という前提で「体罰」という暴力の是非について考えてみたい。

 私が中高生だったころは既に30年から昔の話で今とはだいぶ違うのはあたりまえといえばあたりまえだが、我々昭和の男はガキの頃に多かれ少なかれ先生から「愛のムチ」という名の体罰を受けていた。生徒指導の体育教師とか体罰用の竹刀を学内で持ち歩いていたりして、今思うとさすがにバイオレンスにすぎたような気もする。
 私自身、身に覚えのあることないことでよく殴られたりしていたけれど、当時はそういうモノだと思っていたので別に体罰教師をことさら恨んだり問題視したりすることはなかった。まあ、冤罪含め悪いことをしていた自分の身から出たサビぐらいに思っていた。父兄にしても似たような感覚でいたと思う。
 体罰としてはオーソドックスに頭に拳骨というのが多かったが、愛のムチ派の体育教師に言わせると殴る手も痛いんだそうで(気持ちの問題ではなく物理的に)、竹刀やら木の板やらでオケツを叩かれたこともある。一番痛かったのは正座させられているところを耳を引っ張って立ち上がらされて耳がチョット切れたときである。今なら訴訟でも起こせば慰謝料とれる内容かも知れないが、当時は自分が悪かったと思っていたし、今でもそうだったと思っている。
 そういう荒っぽい教育を受けてきたオッサンとしては、最近の「体罰厳禁」な教育現場では、生徒にいうこと聞かすことができないのではないかと心配になる。学級崩壊とかもそういうのが原因になってない?と心配である。
 なんだかんだいっても、子供も大人も人間で、話せば分かる人間もいればドついてもわからんやつもいるわけで、大人の世界で悪事を働けば懲役刑や死刑といった「暴力」といっていい身体罰がある中でなぜ子供にだけ「体罰」という身体罰を加えてはいけないのかいまいち腑に落ちていなかったが、つらつら考えるとまあそれも仕方ないのかなと思えてきた。

 先ほど大人の世界には「暴力」である身体罰があると書いたけど、その罰が与えられるには警察や検察が証拠を集めたうえで裁判という手続きを経て、どの程度の罰が適当か決められる。身体罰はそれだけ慎重を期さなければならない重罰だということだろう。
 先生個人の裁量でほいほいと身体罰をあたえてはいけないというのは、まあそうなのかもしれない。先生もピンからキリまでだろうから、体罰を容認していたらひどい体罰で怪我したりといった問題も起こってくるだろう。というか、そういう問題が繰り返し生じた結果、ガチガチに「体罰禁止」という流れになったのだろうと思うと、まあこれも時代の流れかと思わざるを得ない。問題が生じないように予防的にあつものに懲りてなますを吹く対応を取らざるをえなくなりがちな、いちいちめんどくせえ世の中であるとは思うけど仕方ない。
 そういう中で、先生はどういう対応をしているのかと軽く調べてみると、まずは話せば分かる世界で「指導」があって、それでも駄目なら課題を与えたり当番をさせたりといった「懲戒」という罰を与えることで対応しているそうである。そんなんで大丈夫なのかと思うが、もちろん問題もあるんだろうけど、昔と比べて極端に悪くなってもいないようで、少年犯罪の発生率とかもそれほどあがってなくて、むしろ減っているらしい。昔も学校が荒れた時代とかあるから、体罰があればどうにかなるというようなモノでもないようだ。「懲戒」は少なくとも直接的な暴力ではなくて、まあそれを苦痛に感じる者がいたら間接的な暴力の一種と言えなくもないけど、直接的な暴力無くても結構いけるということになって、「暴力反対」とお気楽に主張する社会正義の戦士様にはとりあえず抵抗しておきたいけど、直接暴力使わず大丈夫ならそれに越したことはないなとも正直思うところである。実際には問題起こすとデータ管理されてて推薦受けられないとかの監視社会的重圧の増加とかいろんな要素が少年犯罪の増減には関係してそうで、それだけをみて体罰を全否定する必要があるのかとかにはやっぱり疑問は残るけど、体罰積極的に認めるべきだという理屈もいまのところ思いつかない。

 そうであったとしても、ガキが悪いことをして先生にドつかれたら、親が訴訟沙汰で怒鳴り込んでくるというのは、どうにもめんどくせえ時代になったモノだと昭和の男は思うのである。
 明らかに罰がふさわしい行いがあって、そのことについてゴチャゴチャ指導だの何だのしている暇があったら「バカモン!」と拳骨一発で済ませられれた時代は話が早かったのにとオッサン思ってしまうのである。
 今現在、学校での体罰についての私の考えは、過去自分が受けた体罰を不適切だとは思っていないしドついてくれた先生に恩義も感じているけど、今時の価値観が多様化する中で反対する声も大きい中、適切に行使する基準等が難しく、かつ不適切な行使により怪我などを負わることの危険を許容する積極的な理由もないなか、今後はやっぱり体罰は使わないことがのぞましいとは理解するけど、感情的には完全に腑に落ちたわけでもない、ぐらいの社会正義戦士軍に対する反乱軍のゲリラ攻撃としては迫力不足というか一時休戦的なものに落ち着いてしまった。ガツンと攻勢かましたかったのに無念。


 最近戦いを挑んでいる「社会正義の戦士(SJW)」が跋扈するのって、インターネットの時代になって爆発的に増えた飛び交う情報量を、人間が個人としても社会集団としてもまだ上手に処理して判断できていないのも原因かなとか漠然と感じてたんだけど、よくよく考えると、まったく不確実で根拠もあやふやな情報に踊らされて、犯人捜しをして勝手につるしあげたりする私刑って、中世の魔女狩りの頃には少なくともあって、そういう群集心理で罪も無い人間を罪人に仕立て上げたりするのは、人間が複雑な言語を使って情報をやりとりし始めたあたりから存在するたちの悪い持病なんじゃないかという気もしてきた。「フェイクニュース」とか今時っぽい呼び方をされると、なんだか新しい現象のように感じるけど、「デマ」とか「流言飛語」と何が違うネンって考えたら、いつの時代もあいも変わらず学習もせず我ら人類は愚かなことよとうんざりする。現実ってあまりにも玉虫色で不確定で人類ごときがおいそれと正しくその有り様を情報化して把握できるものではない、ぐらいに思っていた方が気が楽かも知れない。
 
 いずれにせよ、政治経済芸能グルメにファッションなんていうのにとんと興味がなくて、自ら情報閉ざして「情報の山奥」に隠遁してるような人間が、たまに下界に下りてきて自分のことは棚に上げておいて王様は裸だと指摘した阿呆のように「オマエらアホとちゃうか」と素直に指摘するのも無意味じゃないかなと思うので、SJWに対する反乱軍としての活動は気が向いたら続けていきたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿